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新しい仕事 1か月目

2013.10.07 (月)


QAに昇格が決まってからも、一筋縄では行かなかった。

これまでの単純作業とは違って、IT企業の内部システムにアクセスするためのセキュリティ・クリアランスやパソコンの設定に非常に長い時間がかかった。

契約社員ではあるが、スマートカードの社員証をもらい、自宅で仕事できるようにリモート・アクセスだのヴァーチャルなんとかだの次から次へとクリアしていった。

ご多分にもれず、このIT企業もヘルプデスクはインドに外注している。バンガローアあたりにコールセンターがあるのだろう。電話に出る人は、ほぼ全員がインドなまりの英語を話す。聞き取りにくいが、私も長いアメリカ生活で多少のアクセントには慣れた。第一、お互いさまである。

それよりも、電話の回線が悪いのか、エコーがあったり、音量が小さかったり、そのほうが問題だった。

安く上げるためにアウトソースする会社は「アメリカ人から仕事を奪う」と悪く言われる。資本主義だからしょうがないと私は思っていた。それに、たまにクレジットカードの会社に電話するくらいしか、私はアウトソーシングには縁がなかった。

結局、2週間以上もインド人のヘルプデスクと何度もやり取りをした。私は彼らの知識と忍耐に非常に感銘を受けた。よく訓練されているからか、もともとITの素養のある人たちだからか。

ヘルプデスクに連絡するたびに記録が作られる。電話が終わると、社内アンケートがもれなくメールで届く。問題は解決できたか、サポートスタッフの対応はどうだったかなど、5つ星で評価せよという。これでは彼らも手が抜けない(もっともアンケートは必須ではない。ちなみに、夫はそういう社内アンケートはすべて無視したそうだ)。

私は律儀に全部のアンケートに答え、ほとんど最高点を付けた。そして、これだけ優秀な人たちの賃金はいくらだろうと考えた。


       *


どうにかパソコンやセキュリティの設定が終わったが、QAの仕事をどうやったらいいのかがわからなかった。

しかも、私と同じように、あと二人が単純作業のパートからフルタイムのQAに移ると聞いていたのに、いつまでたっても私一人だった。

上司がいい人だったから、乗り切れたようなものだ。

彼は面接官のうちの一人で、私の初歩的な質問にも丁寧に答えてくれた。何かしようとすると、アクセスできない。そのたびに上司に伝えると、関連部署に連絡して、私をリストに追加してくれた。

今思うと、私の最初のリポートはまったく使い物にならなかった。それでも、まず誉めて、ここはこうしたらどうかとアイディアをくれた。

しかし、自分が何をしているのかよくわからないままだったので、だんだん行き詰った。何度も書き直し、しまいには上司が重要な部分を書くはめになった。そして、もっと具体的な指示が出た。そのころになって、ようやく私は自分の仕事がなにかなんとなくわかってきた。

そうこうするうちに、ついに二人目、クリスがやってきた。

ネットでのやり取りなので、顔もわからない。同じ会社に契約社員として働いたが、全員が自宅勤務だし、ミーティングもなにもなかったので、まったく接点はなかった。

台湾出身の上司、日本人の私というメンバーのなかで、アメリカ人のクリスはただ一人英語を母国語とする人だった。

数日後、三人目、ジャニスが加わった。彼女もアメリカ人。

彼女はパソコンやネットワークの設定で非常に苦労していた(今でも未解決の問題がある。IT企業がこれでいいのか)。あれだけ有能なヘルプデスクでもヘルプできないのは、なにがいけなかったのか。彼女がやっとQAレポートに取り掛かれたのは、ここ1週間ほどのことだ。


        *


契約社員の元締めであるA社のマネージャーから、QA3名とミーティングしたいとの連絡があった。

彼女だけが西海岸で、QAは全員が東海岸。ネット・ミーティングは夜7時から。

そのとき初めて、全員の声を聞いた。マネージャーからは基本的な情報しかなく、顔合わせ(誰も顔が見えないが)程度の話だった。ともかく、我々三名は大手IT企業の社員でなく、あくまでもA社が雇用する契約社員であると強調していた。

クリスもジャニスも5歳くらいの子供が家にいる若い母親たちで、クリスは下の子がキンダーガーテンに上がるまではパートのままだという。緊張のせいか、彼女たちは静かだった。

西海岸では夕方4時だったが、マネージャーは自宅勤務だったらしく、電話口の向こうから小さい子の騒ぐ声が最初から何度も聞こえた。ミーティング中の母親(マネージャー)のところに来てはあれこれ話しかけるので、「もうすぐ終わるから」とこれまた何度も言い聞かせていた。さすがに、QAたちは小さい子供は誰かに見ていてもらったらしい。ほんの45分のミーティングだったが、まともに話ができた気がしない。

マネージャーには事情があったのだろうが、ミーティングは契約社員(部下)相手だからまあいいわと軽く見ていたと思われる。

長男出産直前に仕事を辞めてからずっと専業主婦だった私には、小さい子を抱えて働く大変さは想像するしかない。

それにしても、クリスたちにも小さい子が家にいるとわかったのは、マネージャーの話のあとで自己紹介が始まってからだった。上司とのミーティングに臨むには当然だろうが、「家で仕事するっていうのは、こういう危険があるのよねえ。30分くらい静かにしてくれると思ったんだけど」というマネージャーの言い訳と対照的だった。


         *


実際、いっしょに仕事を始めてみると、クリスもジャンもよく働いた。アメリカ人だし、小さい子もいるし、9時5時ピッタシかという私の偏見を早々に打ち砕いた。

メールやチャットでのやり取りでも、反応は早い。お互いのレポートを見直すので、私の英語を遠慮がちに直してくれる。私は最初から「英語は母国語ではないので、おかしなところがあれば率直に指摘してください」と頼んでおいた。

ジャンは「そんなこと、言われるまで気づかなかった」とお世辞を言ったが、どれだけ英語が上達しても、ネイティブ・スピーカーのようには書けない。メールやレポートならまだしも、IMになると会話のようなもので、テンポは早いし、言い回しの豊富さが違う。

しかし、英語の添削は彼女たちの仕事ではない。彼女たちの負担にならないように、私は何度も推敲してからレビューに回した。給料をもらいつつ、英語の勉強もさせてもらっているようなものだ。

10年も前に、補習校で会ったあるアメリカ人のお父さんを思い出した。大人になってから習ったというのに、日本語がすばらしく上手な人だった。

語学はある程度のレベルに達すると、なかなかそれ以上は上に行けないと自覚していた私は、どうやったら日本語をそこまで高いレベルに持っていけたのか、私は何をすれば英語がもっと上手になると思うかと尋ねた。

「アメリカの会社で働きなさい」と彼は言った。


        *


クリスのほうがジャンより学歴が高いのはすぐにわかった。

ジャンは文法をよく間違える。特に、コンマの使い方がわかっていない。英語を学問として習った私は気になるが、アメリカ人としてはおそらく平均的なレベルである。それ以上に、QAレポートの中身や、データをまとめる際など、こういうところで教育の差が出るのかと思った。

ちょっとしたやり取りから、クリスは大学院でなにかの研究をしていたことがわかった。どうりで、レポートも書き馴れている風で、簡潔にまとめたい私とちがって、詳細を入れたがる。第一、最初は悪戦苦闘していた私と対照的に、QAレポートのなんたるかをすぐに理解したようだった。

ジャンは契約社員になる前は資格の必要な仕事をしていたが、高卒であれば受験資格があるものだ。朝5時起きだったと言い、私などお金をいくら積まれてもできない、肉体的にも精神的にも大変な、人の命に係わる仕事である。そういえば、彼女は面倒見のよさそうな人だ。

二人ともあんな単純作業を2年もしていたと知って驚いた。私はたった1年で辞めたくなるほどだったのに、根性がある。

就学前の子がいて、家でできる仕事としては理想的かもしれない。それに、低賃金とはいえ、州の最低賃金よりははるかにいい。それにしても、学歴は35年前の日本の女子大卒、18年も専業主婦だった私がやっていた単純作業である。

大学院まで出た人があんな仕事とは本当にもったいない。QAでももったいないくらいだ。


        *


私の最初のレポートは、締め切りを2度も伸ばしてもらい、水曜日にやっと完成した。

よくわかっていないまま始めた弊害がどうしても見逃せず、最後の3日間でデータの見直しからすべてやり直した。睡眠を削って、食事もまともに取らずに取り組んだ(おかげで、目標体重まであと200グラムとなった)。クリスとジャンが何度も見直してくれたのは、本当にありがたかった。

蓄積した疲労と、完成した時の安堵からか、しばらく虚脱状態に陥ってしまった。

エンジニアたちの反応はまだわからない。私のレポートの出来は怪しいが、その中で一つのケースだけは自信がある。エンジニアにとって価値のある分析ができたと思う。それ以外は、ほとんどこじつけだと一蹴されるかもしれない。

二つ目のレポートは、データが大きいので3人で共同作業をすることになった。まだデータの分析をしている最中だが、やっと自分が何をしているのかわかってきた。

すでにいろいろ失敗もしたし、いつお払い箱になるかわからない。今の目標はプロジェクトの終わりまで首にならないことである。


          *

昨日、土曜日の夕方4時ごろちょっと昼寝をしようとしたら、目覚めたのは翌朝の4時だった。      

やっとブログに取り組む気力と体力が戻ってきた。

最後の更新は3週間前。何を書いたのかすっかり忘れていて、まず自分の書いた記事を読むことから始めた。

長男の去年のクラスメートの話とか、デイヴィッド・ギャレットのこととか(ここ1か月は音楽を聴く余裕もなかった)、長男の大学生活2年目の様子とか、気になるビデオとか、忘れないうちに書いておきたいことがいろいろある。しかし、いつ書けるかわからない。

気がつけば、すでに10月になっていて、窓から見える木々はすっかり紅葉している。


<今日の英語>

It was something along the lines of, "I've never tried this on that low of an OS".
「そんなレベルの低いOSにこのプログラムを走らせたことは一度もない」みたいな言い方だった。


クリスが彼女の使っていたOSについてIT大企業の正社員と話したときのこと。「契約社員が自腹で買った家庭用パソコンに何を期待してんのよ?」と憤っていた。一字一句は覚えていないが、だいたいこういう意味のことをこんな風に言ったという表現。
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義父の食事

2013.10.14 (月)


義父がこちらに泊まりに来る前々日、リンから電話がかかってきた。

ニューヨークのホテルに無事に到着したこと。リンの娘ウェンディも同行していること。そして、義父の送り迎えをどうするかの相談。

私はフルタイムで働き始めていたし、夫はG氏のプロジェクトを手伝ってはいたが、私たちはほとんどずっと自宅にいた。次男が退院して、遠くまで出かける必要もなくなっていた。

いつでもいいとリンには言ったが、日曜日に決まってほっとした。片付けの時間を確保するためには、遅いほうがありがたい。しかし、その後、話が二転三転して、土曜日になった。

私は仕事の合間にちょくちょく掃除をした。それでも、土曜日は一日中片付けに追われ、夫が義父をつれて帰宅したころにはクタクタだった。

老人は転びやすいからと、床に敷いてあるラグはほとんどすべて地下室へ持って行った。

私がふだん使う主寝室を明け渡すことにしたので、ぶつかりそうな家具や箱なども動かす。夫が捨てたがらない古くて重くて大きいテレビは、カートごと部屋の隅に転がす。配線コードも引っかかりそうなものはどかさねばならない。大仕事だったが、もともと無駄に広い主寝室がさらに大きく見えるほどスッキリした(まだその状態を保っている。それだけに、テレビが目障りでしょうがない)。


         *


好き嫌いの激しい私は、もてなしが苦手である。自分が料理を供するのはもちろん、よそのお宅でごちそうになるのもストレスがたまる。

結婚当初は、義父母が来るたびにパニック状態に陥った。年を経て、どうにかごまかす術も覚えたが、ほかの人のために食事の支度をするのは極力避けたい。

義父は好き嫌いなく、何でも食べる。大恐慌時代を経験しているだけに、出されたものは残さない。もともとが食いしん坊である。これが最後の滞在になる可能性が高いし、何もない田舎だから、せめておいしいものでも作ってあげようと思った。

「グランパはこの頃どんなものを食べてますか。ずいぶん前にコーヒーをやめてお茶にしたことは知っていますけど、お茶はどんなお茶がいいでしょうか」と私はリンに聞いた。

「お茶はあなたが飲むのといっしょでいいわ。」

「じゃあ、ダージリンとかイングリッシュ・ブレックファストとか普通の紅茶ですけど。朝はシリアル、それともパンのほうがいいですか。」 義父はなんでも食べるが、こだわりもある。

「シリアルは食べないわ。パンも。」

「えっ、どっちもですか。じゃあ、ヨーグルトは?」

「ヨーグルトは食べるわ。フルーツも。卵もOK。でも、パンはだめ。シリアルもだめ。それから、ポテトもお米もパスタもだめ。チーズはいいけど。」

「そんな!私はお米なしじゃ生きていけません。」

「あなたはそうよね。でも、太るのよ。パンもパスタもポテトも。まあ、あなたが作るなら、グランパも食べてもいいわ。」


        *


義父母に会ったのは2年ほど前。そのときには普通に食べていた。

それまでにも、朝は豆を挽くところから始めるほどコーヒーにこだわっていたのが、突如として朝は緑茶(砂糖入り)になったことがあった。流行りものが好きで外見にもこだわる義母は、ピラテスやらバランスボールやらにも手を染めたりして、あの食べ物は太るのどうのとよく話題にした。

いつから炭水化物を抜かすようになったのか。1年に数えるほどしか電話しないが、体重が減ったという話は聞いたことがあった。私は人のそういう話に興味がないので、すぐに忘れてしまう。

「ちょっと!リンもグランパも、ノー・ブレッド、ノー・シリアルですって。パスタもお米もだめで、お芋もダメって言うのよ、リンが。いったい何を作ればいいのよ?」と私は夫に訴えた。

「そういえば、そんなこと言ってたなあ。いつもみたいに作ればいいじゃないか。そんなものに、付き合えんよ」といい加減な夫。

それでダイエットできるなら、夫こそ食事制限すべきだと思うが、まるっきりやる気がない。セロリをかじって相当痩せたのに、いつの間にか元通りになっている。ヨーヨー・ダイエットの典型である。

義父は心臓も患ったし、足腰にも故障を抱えている。少しでも体重を減らしたほうがいいのは確かだ。義父は、夫のお腹周りなど問題にならないほど、太っていた時期がある。


         *


確かに義父はずいぶん痩せて見えた。全体に小さくなったのだが、それでもお腹や腰の脂肪は落とせないようだった。

結局、朝はノン・ファットのプレーンヨーグルトに、あるだけの果物を小さめに切って出した。紅茶とオムレツとナッツ。ワンパターンの朝食である。しかも、朝が遅いので、ほとんどブランチで朝兼昼だった。

小麦粉がダメなら、クッキーもケーキもパイもなし。とにかくフルーツとサラダしか出せない。

夕食は、ビーフシチュー(シチューの中にも付け合せにもじゃがいもはなし)やサーモンのオーブン焼きはよかったが、そのあとはラザーニャやヤムなど炭水化物を出さざるを得なかった。なるべく野菜を増やしてみた。

慣れない仕事で疲れ、パートタイムと違って時間に余裕がなかった私は、「ラザーニャでいいでしょうか」と義父にお伺いを立てた。義父はいつでも「もちろん、なんでもいいよ」と答えた。一度だけ、イタリアン・レストランからテイクアウトしたが、仔牛肉とピーマンのソテーとサラダだけを食べた。

でも、テーブルに出ていれば、義父はヤムでもパスタでも食べた。とくにヤムは自分でお代わりをよそった。南部の生まれだからか、そういうものが好きなのだ。

確かに体重を減らせたのはよかっただろう。でも、義父は89歳である。私がその年なら、好きなものを好きに食べたい。お米は太るからいけませんなんて言われたら、生きる楽しみがなくなる。

義父の滞在の終わりに、私は思い立って日本風のスポンジケーキを焼いた。前にカリフォルニアのお宅で焼き、義父はアイスクリームと一緒に食べて、とてもおいしいと言った。うちにはアイスクリームはなかったが、「リンには言わないでくださいね。私が食べたくて焼いたケーキが、たまたまテーブルにのっているだけなんですから」と一切れを出した。私の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、義父はニコッとした。


         *


実際、義父母がこのダイエットをどこまできっちりやっているのかわからない。

父親をマンハッタンまで送り届けた夫は、リンや姪っ子、ボストンから合流した長男と一緒に、ビストロなんとかという高級そうなフレンチレストランで昼食をともにした。まさかそんなところまで行って、パンも取らず、お芋の付け合せにも手を付けず、だったのだろうか。夫はそこまで観察していなかったようだ。

ここ数年、義父は外出が極端に減ったらしい。買い出しも料理もすべてリンがやっていた。歩くのが困難なので、スーパーの中も見て回れない(車椅子はあるが、リンの負担が増える)。昔は、自分で朝から魚屋まで出かけて、鮮魚を選び、自分でさばいたほどの食いしん坊だった。

義父自身も体重を減らしたかったのかもしれない。確かに、その必要はあった。足腰や内臓への負担も軽くなっただろう。

しかし、と私は再び自分に照らし合わせる。

結婚当初、鉛筆のようにガリガリだった私には戻れないし、戻りたくもない。仕事のせいで少し痩せたが、すぐに元に戻った。日本では決して痩せているとは思われないだろうし、年齢相応に足腰に脂肪がのっている。あと5キロ落としたい。

炭水化物をやめたら5キロくらい減らせるかもしれない。しかし、お米やうどんやお菓子を諦める気はさらさらない。意志薄弱なので、どうあがいても無理だ。

それに、もうあと何回、おいしいお米が食べられるかどうかわからない。白米も炊き込みご飯もおにぎりもリゾットもチャーハンも食べたい。それで体重が1キロ増えたり、寿命が3年縮んだりしてもかまわない。ご飯を我慢してまで長生きするほど、人生に価値があるとは思えない。

それでも、毎日体重計に乗っては200グラム程度の増減に一喜一憂している。不惑をクリアできないまま、五十にして天命を知るどころではない。

不惑も知命も、孔子がその年でそうだったというだけで、凡人のための到達チャートではないということがよくわかる。


<今日の英語>

I am a rising sophomore at L University where I am studying art.
L大学でアートを勉強している、今度ソフォモア(2年生)に上がる者です。


この新学期が始まる前、夏休みのある日、大学の事務局に電話した長男が名乗ったときの一言。初めて聞いた表現で、なぜか印象に残っている。



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