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4年ぶりの日本 その3

2013.07.01 (月)


ゲームやアニメに興味のない私は、秋葉原になんの用もなかった。

長男に付き合って、あちこちのお店に行ったものの、疲れるだけでおもしろくもなく、すぐにいやになってしまった。

そこで1時間だけ別行動をすることにした。私は駅ビルで買い物(実際は椅子に座って、通行人を眺めていただけ)、長男は他のお店をさらに見て回る。

「3時ぴったりにここに戻ってくるのよ。あんまり遠くに行かないのよ」と何度も言い聞かせたのに、長男は10分も遅れてやってきた。私はずっとハラハラしどうしで、長男が息せき切って現れたときには、どっと疲れが出て、一刻も早くホテルに戻りたくなった。

「お母さん、あの、お金ある? ぼく、どうしても買いたいのがあっちのお店にあるんだけど、カードじゃだめみたい」と長男。

「あんた10分も遅れてきて、なにやってたの!」と私は機嫌が悪い。

どうしてそういうくだらないものでお金を無駄にするのだ。しかし、次男や友達へのお土産にするのだとかごちゃごちゃうるさいので、現金を少しだけあげた。

日本に到着して3日目である。

湿度が体にこたえるし、午後は時差ぼけのせいで思考能力が衰える。どうでもいいから、とにかく早くしてくれと思った。

長男は秋葉原がたいそう気に入ったらしい。アメリカに帰る前にもう一度行きたいとのたまう。まっぴらご免である。私はあの町には何の魅力も感じなかった。


         *


翌朝、土曜日の朝9時半。姉は再びホテルへやってきた。

添乗員よろしく、その日の予定はすべて姉がお膳立てしてくれた。すでに実家に行くための電車の切符も購入してくれていて、私はお金を渡すだけである。

姉がずっと付き合ってくれるために、私はなにも調べなかった。姉の後をついていっただけなので、横浜から鎌倉へ行って、それから新横浜までどうやってたどり着いたのかもわからない。

もしかして私は日本で姉と暮らしていたときも、こうやって姉に頼っていたのだろうか。外出だけでなく、ありとあらゆることで私は姉の助けがあったから東京で生活できたのではないか。

その後、アメリカに移住して25年経っても、私という人間は結局なんにも変わっていない。

アメリカでは生活費を稼ぐ以外のことは私がほとんどすべてやっているが、それはいわば表面的な雑事に過ぎない。本当に重要なことについて、私は夫を当てにしているのだ。なにがあっても夫がどうにかしてくれると心の底で思っている。

自分がどこかで成長し損なった気がしてならない。

ただ年を取るだけなら、誰にでもできるんだなあと思う。


        *


姉の指示で、スーツケースはホテルから宅配便で実家へ送ることにした。ついでにスマートフォンを返却するために、姉に小さい箱を持ってきてもらった。

ホテルには宅配便受付の専用デスクがあった。

担当の女性はこれまたほっそりとかわいらしく、てきぱきにこやかに対応してくれた。

送り状には配達時刻の指定があって(午後は2時間区切りという細かさ)、私は翌日ならいつでもいいのだが、姉が午前中にしろと言う。そうしなくても、たいていは午前中配達だと聞いて驚いた(正午までに来ればいいなと思っていたら、なんと翌朝10時には実家にピンポーンとやってきて、迅速・正確なのにまた驚いた)。

送り先は実家の母で、差出人はホテルなのか、やはり実家の住所にすべきか。担当の女性にたずねると、「それでしたら、ドウジョウと書いていただければだいじょうぶです」と言う。

そうか、その手があったかと、まずドウを書こうとしたら、中は口だけだったか、一本横線があるんだったか、自信がない。少し離れて長男と立っていた姉に教えてもらう。

漢字を書かなくなって久しい。読むのはいいが、書くほうはどんどん忘れていく。

受付の女性はスマートフォンをプチプチでくるくると梱包し、姉の用意した小さい箱に収めて、丁寧にテープでとめてくれた。箱も頼めばホテルで用意してくれたらしい。

また感激する私に、「これくらいのホテルなんだから、あったりまえでしょ」と姉は冷静であった。

日本人の要求レベルはまことに高く、それに答える日本の業者は大変だ。

日本人は日本の優秀なサービスを当然のことと受け止めているだろう。当然すぎて意識すらしていないかもしれない。ガラパゴスというなら、携帯どころか、こういうサービスこそ世界から突出して発達した分野だと思う。

部分的にならこの程度はできる国があるかもしれないが、日本の驚異は、平均して万遍なく高品質のサービスが受けられることだ。


          *


私にはおいしいものを食べさせ、長男には珍しい体験をさせるべく、姉は鎌倉を選んだ。

昼食は懐石料理である。

もちろん長男は初めてで、出てくるものにいちいち「これ、なに?」と聞いた。昔は食べたことのないものに強く抵抗した子だが、「口の中が混乱してる。何食べてるのか、わからない」と何度も言いつつ、すべての料理に挑戦した。こんなところでも長男は成長していた。

姉は「この器もいいのよ。この野菜はこうしてあるの」といろいろ説明してくれたが、長男と私には猫に小判状態。

手の込んだ、芸術的な盛り付けの料理は、ふだんアメリカで食べているものと格差が激しく、1ヶ月以上たった今、思い出せるのは最後のデザートだけである。極上のカボチャプリンだった。

会計はもちろん姉。恐ろしくて、値段は聞かなかった。

その後、近くの和菓子屋で姉が何か上等なものを買い求め、実家の母に手渡すようにと言われた。

私はアメリカからお土産の一つも持ってこなかった。そんなこと考えもしない。私はお土産をあげるのももらうのも苦手だ。今回だけでなく、アメリカに移住してからずっとそうだ。気が利かないなんてレベルじゃない。母も親戚もきっと呆れているだろうが、何も言わない。言ったってしょうがないと諦めているだろう。

たまに周りの状況で、「ああそうか。おみやげか」と思うことはあっても、自分にとってはどうでもいいので、意識に残らない。だいたい何をお土産にすればいいのかもわからないのだ。

50歳にもなって、そんなことまで姉に面倒を見てもらっている。


         *


次に向かったのは、お寺。

そこで座禅の体験コースに挑んだ。人気が高いらしく、建物の前にはすでに列ができていた。

空手をやり、meditation(瞑想)もやる長男は、緊張しつつもやる気満々だった。

私はすべての宗教を胡散臭いと思い、瞑想するより昼寝したいタイプ。

座禅道場には薄い座布団と小さい平べったい枕みたいなものがずらりと並べてあった。みんな黙って荷物を置き、座布団の上に座る。長男をはさんで、私と姉が横に並んだ。静寂そのもの。

お坊さんが来て、脚の組み方や手の置き方、呼吸など基本的なことを説明した。10分間の座禅を2回。その間に、少し休憩が入る。

座禅の最中にお坊さんに警策で肩をパシッとたたいてもらいたい人への指示もあった。今はお坊さんの修行でもそんなにひどくたたかないのだそうだ。体験コースともなれば、もちろん手加減してくれる。

息を吐くごとに1回、2回と数えるようにとの指示だったが、雑念だらけの私はまったく集中できず、時差ぼけによる眠気もあって、10分間が非常に長く感じられた。「あと3分です」とか「残り1分です」とか予告してくれたらいいのにと思った。

お坊さんには私のような不埒な者が手に取るようにわかっただろう。

薄目を開けているので、長男がお坊さんに作法どおりに合図し、お坊さんが長男の両肩をパシッとたたき、長男がお辞儀しているのが見えた。私とちがって、長男はこういうことには率先して挑戦する。

その後、姉は長男を連れて境内の中を散策しながら建造物を見せてくると言い、私は涼しいお堂の中でぼんやり座っていた。


         *


新幹線の時間が気になってしかたない。姉に任せておけば間違いないはずなのに、不安になる。

姉の引率でまず横浜駅に戻り、駅ビルの地下にある食料品売り場へ向かう。豪華な品揃えと整然としたお店の様子にまた感激するも、あまりの人の多さに目が回りそうになった。

乗り物と外出に加えて、私は人ごみが苦手なのである。

どこかでお茶を飲もうと喫茶店に向かったが、そこにも人が並んでいた。アメリカの田舎で引きこもっている私は、耐えられなくなった。眠いのもあって機嫌が悪くなり、「あんたは文句ばっかり」と姉に怒られた。

「慌てなくてもまだ時間はたっぷりあるよ」という姉を説き伏せ、新横浜へ向かった。xx時までに横浜を出たら間に合うというのを、xx時に新幹線が出ると私は誤解していたのだとあとでわかった。新横浜の駅の待合室で1時間も時間つぶしをしなくてはならなかったが、人ごみと乗り遅れの不安から解放されて、やっと私はリラックスできた。

私が迷うかもしれないと、姉は新幹線の乗り場まで付いてきて、出発までホームで見送ってくれた。

私だけならとても長男にこんな経験はさせてやれない。普通の子どもはもっとあちこち出かけたり、いろんな体験をして育つんだろうなあと、自分のふがいなさに落ち込んだ。

独身の姉のほうがよっぽど子育てに向いている。

世の中、なかなかうまくいかないものである。
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4年ぶりの日本 その4

2013.07.05 (金)


実家のある町の駅に降りると、土曜日の夕刻なのに、あたりは不気味なほど静まり返っていた。

帰国するたびに街が寂れていたのはわかっていたが、今回はゴーストタウンである。とにかく人も車も少ない。駅を中心にして栄えた昔とちがって、商店街ではシャッターを下ろしたままのお店がさらに増えた。

母の外見はあまり変わっていなかった。でも、動作は確実に遅くなった。高血圧の薬も飲むようになっていた。肩こりや腰痛とは縁がないのが自慢だったのに、私と長男の滞在中に珍しく腰が痛いと言い、でもお医者には行こうとしなかった。

80歳の母の一番上の姉は90才で、去年軽い脳溢血で倒れてからボケてしまって、「もう私のことはわからんだよ」と母は言う。息子夫婦とご主人が自宅で介護しているらしい。母の継母は何年も老人ホームにいて、こちらもボケているが、体は丈夫なので、まだまだ長生きしそうだという。

そんな話ばかりである。

母は料理や洗濯が好きなので、上げ膳据え膳はもちろん、前の日に着た服が翌日の昼ごろには乾いてちゃんとたたんであったりする。私が頼まれたのは掃除機だけ。昔の安物掃除機なのに、アメリカの重くて音が大きいだけのと違って、軽いしよく吸うし、コードはボタン一つで本体に収まる。なんと賢い。アメリカに連れて帰りたくなる。

「よう大きくなった」と母は長男に言ったが、本当はもっと背が高くなってほしいのだ。「お父さんより大きいだか?」と私にそっと聞いたり、「もっと食べにゃ」と何度も勧めたりした。長男が小柄なのは、私が一番気にしている。きっと顔に出ていただろう。母もあまり言わなくなった。

実家でも、長男は出される食べものはとりあえず口にした。アメリカではうなぎも食べないのに、戦々恐々としながらも皮以外ぜんぶ食べた(私だって皮は残す)。


        *

         
あいかわらず、母の友人たちが入れ替わり立ち代わりやって来た。

おちおち寝転がっていられない。私と長男に食べさせようと、おいしいものをあれこれ持ってきてくれる。私はやっぱり暑くて、タンクトップとショートパンツだが、もはや誰も何も言わない。

みんな80代で、癌をわずらったり、夫を亡くしたり、背が縮んだりしていた。それでも、畑仕事をして、自転車にも乗り、母の家が集会所のようになる。引きこもりでなまけものの私より、ずっと活動的である。

私は日本でも人付き合いは嫌いなので、同級生とも一切の連絡を取らない。それでも、母の同級が来れば、その娘である私の同級生もやってきて、「コメットちゃん、ぜんぜん変わっとらんねえ。去年、同窓会があっただよ。xxちゃんって、覚えとる?」と私に尋ねる。覚えてないし、思い出したくもない。母が「遠くにいるもんだい、同窓会の電話があっても行けんだよ」と口を挟んだ。

「私がいる間に同窓会があったって、私はそんなもの行かないわよっ」とあとで母に言い放ち、「あんたはおかしな子だやあ、せっかく呼んでくれとるだに」と社交的な母はぼやいた。

私は親戚とも積極的に交流しない。先方が実家に尋ねてくれば会うだけ。

日本でアジア人と結婚したいとこが子連れ離婚して日本人と再婚したとか、別のいとこ姉妹はそろって未婚だとか。別のいとこの娘は二人とも医大だとか、また別のいとこの娘たちは髪を染めてタバコを吸うとか。そのいとこの息子はエジプトで働いているとか。母の弟の息子の一人はドイツで研究者をしているとか、母が4年分の情報をくれる(私にはいとこが十数人いる)。私がアメリカに移住した当時とは比べものにならないほど、海外が身近になっていた。

ただし、外国人と結婚して外国に永住するなんて、後先考えないパーは私だけである。


        *


張り切る母に休養させ、かつ長男の見聞を広めるために、姉が長男を奈良と京都に連れて行ってくれた。すべて段取りしてあり、2泊3日の費用は姉が全部払ってくれた。心配する私に、姉は先々から電話をくれた。奈良ホテルとウェスティン都ホテル京都に泊まり、うまいと評判のお店で食事をし、たくさん買い物もしてきた。長男がこういう贅沢を普通だと思ってもらっては困るが、姉の心遣いがありがたい。

4年前と同じお店でメガネを作った。田舎なのに、ここでもサービスとハイテク設備に感動し、レンズの値段が4年前の半額(1万5千円から8千円へ)になったのに驚いた。「デフレのせいですか?」と店員に聞いたら、もっと複雑な背景があるらしかった。アメリカに戻って、ダメ元で保険会社にレシートを送ったら、75ドルだけ払ってくれた。

実家近くの唯一のショッピングセンターが改築されていた。フードコートのような広い場所があり、あちこちに休憩用のソファが並び、老人が目に付く。どのドラッグストアでも、介護用品のコーナーが大きかった。

ウォッシュレットは田舎でもますます普及していた。どのトイレにも使用前に使うらしい消毒液まで設置してあり、日本の抗菌対策はさらに進んでいた。ハンドドライヤーもふつうにあって(ただし、そよそよと優しすぎて永遠に乾きそうにないものもあった)、せっかく持参したハンカチの出番はなかった。

図書館に行き、借りられるだけ借りる。貸出システムもハイテクになっていて、新しくカードを作ってくれた。本をスキャンして、貸出カードを機械に入れると、本の情報が印刷される。返却して、また他の本を借りると、なぜかそのインクは消えて、新たに借りた本の情報が印刷されるというシロモノだった。

もっと驚いたのは実家のネット環境。

もはやダイアルアップではなく、ハイスピード・インターネットで使い放題。これは実家だけでなく、町じゅうがそうらしい。母のパソコンのスペックは、私のより数倍優れていて、それなのにたまにメールとソリテアしかやらないのだ。母は数独や漢字パズルが好きなので、「ネットで探してあげようか」と聞くと、紙と鉛筆がいいと言う。


        *


いつもそうだが、帰国直前の週はあっと言う間に過ぎる。

特に今回は3週間足らずと、これまでで一番短かったのに、最初の週を横浜で過ごしたために、実家にいたのは2週間だった。

長男と百円ショップや文房具屋に行っては、お互い「これ見て。すごーい!かしこーい!」を連発し、スーパーの品揃えがものめずらしく、買い物に時間がかかる。図書館で借りた本や新聞や週刊誌も読まねばならない。

来客があれば、少しはおしゃべりにつきあわねばならない。しかも、母のお客はそろいもそろっておしゃべりなのである。



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4年ぶりの日本 その5

2013.07.05 (金)


あと2日でNYに戻るという日に、長男は一人で電車に乗って出かけた。

前の週に私の用事でいっしょに行った町だが、一人で行くのは初めてだ。マジックというカードの世界同時発売日だとかで、どうしても行きたいと言い張る。電車で一本だし、長男が行きたいお店は駅の近くにある。帰りの切符さえあれば、うっかりぼんやり長男でも自力で帰ってこられるだろう。

しかし、切符を買うところから長男はつまづき、「往復」でなくて「回数券」を押してしまった。漢字が読めないせいだ。

念のため、実家の電話番号や時刻表も持たせた。

「なにかあったら交番に行くのよ。交番ってわかるでしょ。ポリスボックスよ。xx駅にはどうやっていったらいいですかって聞きなさい。そうだ、おまわりさんに電話借りて。うちに電話して。何時の電車で帰ってくるの?」と私もしつこい。

「お母さん、ぼくはボストンでいつも電車に乗ってるんだよ」と長男はうっとうしがった。

なにしろ携帯がなかったので、連絡が取れない。私は1日中ハラハラして過ごした。電車は1時間に2本しかない。そろそろ戻るはずだと母と二人で窓から道路を見張っていたが、なかなか来ない。今度の電車で来なかったら、お店に電話してみようと話していたところで、やっとご帰還となった。

カードのお店が入っているビルには、ほかにもいくつかアニメのお店があって、楽しく見てきたのだそうだ(お決まりの散財)。そして、お昼はうどんを食べ、アイスクリームも食べ、帰りの電車にも間違えずに乗れたという。

まったく、私は心配性で過保護である。

世界一安全な日本で、しかもこんな田舎で(長男が行ったのは新幹線が止まる町だが)、いったい何が起きようというのか。日本語で尋ねたら、誰もが親切に教えてくれるだろう。むしろ迷子になるくらいの冒険になればよかったのかもしれない。そうすれば、日本語のできるありがたみがわかる。私の苦労も少しは報われよう。


         *


帰りもスーツケースを羽田近くのホテルまで送った。

なぜかホテル宛てには配達時間を指定できないとのことだった。出発前日に届けば何時でもよかったが、飛行機は早朝出発なので、あまり夜遅いと困る。「夜8時、9時くらいなら大丈夫でしょうか。まさか真夜中ということはないですか」と宅配に電話で聞くと、「申し訳ありませんが、何時かはお約束できません」と言われた。

しかし、姉によると、絶対にだいじょうぶ、たぶん午前中にはホテルに届くと自信満々だった。念のため追跡したら、その通りだった。おおよその時間でも教えてくれなかったのはなぜか。お客のクレーム対策だろうか。

新幹線に乗るところまで付き合うという母と叔母を説得し、実家最寄の駅までにしてもらった。

二人とも入場券を買わず、一人だけいる駅員に「ちょっとそこまで見送るだけだで、すまんね」みたいなことを言って、いくら田舎の駅だからって堂々とホームまでやってきた。

彼女らに比べたら、私のずうずうしさなど子猫みたいなもんだ。

私と長男が東京で新幹線を降りると、姉がホームで待っていた。そして、昼食後にホテルまで付き合ってくれた。次男へのおみやげや、私と長男の夕食(おいしいサンドイッチ)と朝食(おいしいデニッシュ)も用意しておいてくれた。それが食べ納めだった。

翌朝5時。がらがらのシャトルバスに乗り、羽田に向かう。

母にもらった20万円を換金すると、ちょうど2000ドルだった。ドル高がうれしい。これは母から子どもたちへのお小遣いで、里帰りのたびにくれる。私はそっくり大学の授業料のために預金している。

私にはスーパーや百円ショップで使えと5万円くれたが、アメリカで換金した円やカードで支払ったので、まるまる残った。持って行って次に来るときに使えと母は言い、こちらは円のままパスポートといっしょにしてある。

私は帰り道はパニックにならない。どこへ出かけてもそうだ。自分の家に帰るのだと思えば、心は軽い。

センチメンタルにもならないが、「上げ膳据え膳の生活もこれまでか」と名残惜しくはある。


          *


機内ではまた薬を2回飲んでずっと眠っていた。機内の記憶はない。降りてからも朦朧として、長男のあとをふらふら付いていった。

預け入れ荷物が出るのを待っていると、ビーグル犬がやってきた。

私は働く犬が好きである。「まー、かわいい!お仕事してえらいわねえ」と思ったら、私の機内持ち込みかばんの前にちょこんと座った(長男によると、犬は手を私の荷物の上に乗せて合図したそうだ)。農産物を調べる犬らしく、警察官が「フルーツかなにか、入ってますか」と私に聞いた。

「ノー!持ってません。えーと、日本のお菓子には小豆のゆでたのがはいってますけど。あとは、クッキーと、なんだっけ」と回らない頭でジッパーを開けては説明した。警官は私に1枚の紙を手渡し、「これをあっちの人に渡してください」と指差した。

そっちには別の係員がいた。「農産物は何も持ってないんですけど。ぜんぶ出しましょうか」と聞いたら、「いや、いいですよ」とすく釈放してくれた。

警官も係員もまったく高圧的ではなかった。ごくビジネスライクな対応に、NYに戻ってきたんだなと思った。

いくら訓練された犬でも間違えるのか。でも、警官は犬を褒めて、小さいおやつを口に入れてあげていた。こんなことなら、みかんの一つでも入れておけばよかった、ビーグルのお手柄になったのになどと妙なことを考えた。

今思うと、姉がくれたお土産に簡易包装のフルーツケーキがあった。でも、あれは生ではない。もしかして、ずっと前にカリフォルニアへ行ったときに、フルーツをおみやげにもらって、そのときの匂いが残っていたのだろうか。あるいは、朦朧として突っ立っていた私を警官が怪しんだのだろうか。

ともかく、警察犬に検挙されたのは生まれて初めてだったが、やましいところがなくても慌てるものだ。


         *


早朝なのに、夫はちゃんと迎えに来ていた。

私は薬のせいでまた支離滅裂なことをペラペラしゃべったそうで、後部座席で横になってからの記憶はない。

目が覚めたら自宅のガレージだった。車の中で5時間も寝ていた計算になる。夫も長男も、熟睡した私をそのまま眠らせておいてくれたらしい。

時差ぼけが治るまで2週間かかるのは毎度のことだが、今回は英語に戻るのに苦労した。脳が対応しきれないのだ。特に最初の2日くらいは話すほうがひどかった。「お母さんの英語、ぐちゃぐちゃだったよ」とあとで長男に言われた。

ラジオを聴くにも、集中しないと頭に入らない。ニューヨーカーの早口には慣れているつもりだったが、こんなことは初めてだった。

年のせいだとしたら、これから先が思いやられる。

次の里帰り目標は2年後。母が元気なうちに、成長した次男を見せるためだけに行く。

次男がそれまでによくなっていれば。



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まだまだ冷めないバイオリン熱

2013.07.07 (日)


2ヶ月前、地下鉄のバイオリン弾きを聴いてから(その話はこちら)、バイオリンに、ひいてはデイヴィッド・ギャレットに目覚めた私だが、その後も熱は上がる一方である。

YouTubeに保存したうちの9割はデイヴィッドというミーハーぶり。

朝から晩まで彼の演奏を聴く。「お母さん、おんなじ曲ばっかりそんなに聞いて、よく飽きないね」と長男が感心するほどだが、私は眠っている間にも聴きたいくらいなのだ。

私のピアノは「猫ふんじゃった」だし、ごく簡単な楽譜しか読めない。デイヴィッドの音楽性とか解釈とか、難しいことはまったくわからない。ただ、彼の演奏が好きななだけである。体を折り曲げるように大げさに振り回して弾くバイオリニストとは違って、デイヴィッドは姿勢も私好みときている。ついでに声もいい。

これだけ何度も聴けば、彼の演奏はすぐにわかるようになるだろうと思ったが、まだそこまでいかない。私の耳は性能が悪い。

有望な若手からベテランまで、他のバイオリニストと聞き比べもしてみた。

最初に聴いたデイヴィッドの演奏スタイルが基準になっているせいか、何度も聴いてなじんでいるせいか、やっぱり彼がいちばん耳に心地良い。うまい下手でなく、単に嗜好の問題である。

例外は、クライスラー

私は「愛の喜び」は知っていたが、「愛の悲しみ」もあるとは知らなかったという程度の知識しか持ち合せていない。どちらもデイヴィッドの演奏を聴いてから、クライスラー本人のなんとも優美な演奏を聴いた。

生きててよかったと思う、それくらい素晴らしい。音楽の授業では、生徒に迎合して流行歌を入れるのでなく、こういう本物を聞かせるべきだ。


         *


デイヴィッドはクラシックが一番いいと思うが、それ以外のジャンルもいろいろ弾く。

そこから、思いがけない発見がいくつもあった。

まず私が熱中したのは、よりにもよってアルゼンチン・タンゴ

Por Una Cabezaという有名な(私はぜんぜん知らなかったが)曲をデイヴィッドがオーストリアで演奏したのを聴いて気に入り、オリジナルの歌を探した。これがまたいい。外国語の好きな私なのに、どうにも魅力を感じなかったスペイン語である。それが歌詞を印刷して、歌えるようになろうと毎日聞いている。



そのつながりで、この歌でタンゴを踊る映像に行き着いた。

たとえば、Scent of a Womanでアル・パチーノが若い美女に手ほどきをするシーンEasy Virtueの映像にこの曲を合わせたビデオもよかった。女優のドレスと靴も素敵だが、なんといっても、リードするのが永遠のMr. Darcy、コリン・ファースなのだから当然だ。


       *


私はなんにも踊れない。興味もなかった。それが急にタンゴを習いたくなった。

ワルツやフォックス・トロットやチャールストンなんかはどうでもいい。タンゴだけでいい。それもPor Una Cabezaが踊れさえすればいいのだ。

長男に「あんたタンゴ踊れない?」と聞いたら、「タンゴ?!できないよ。大学にはスイングダンスのクラスはあるけど」と言う。

「スイングなんかどうだっていいのよ。私はタンゴを覚えたいの。」

「そうだ、ジョンはタンゴ踊れるよ。ジョンのお母さんが男は踊れなくちゃいけないって言って、いろいろ練習させられたんだって」と去年のルームメイトの話をする。

「ジョン、踊れるの?! 今度会うときに教えてくれないかしら。ちょっと聞いてみて!」と舞い上がる私。そうだ、ジョンの母親は正しい。男はタンゴの一つも踊れなくちゃいけないのだ。育て方を間違えた。

夫は踊れそうにないし、習う気もなさそうだが、長男はまだ間に合う。長男がジョンに習って、それから私に教えるのはどうだろう。

YouTubeにはタンゴのレッスンが山ほどあるが、ビデオを見ただけでは無理そうだった。

こんな田舎にもダンス教室はあって、実はベラルーシ人とロシア人が教えている大人向けのクラスがあるのだ。申し込む勇気はない。しかし、足腰立たなくなってから、「あのときタンゴのレッスンに行っておけば」などと後悔もしたくない、と心は揺れる。

デイヴィッドのおかげで、Tico Tico というこれまた有名らしいブラジルの曲や、Palladioというダイアモンドのコマーシャルでも使われた曲(コマーシャル用の曲だと思い込んでいたが、ウェールズの作曲家のクラシックだった)など、うれしい発見があった。

Viva La Vida もたいそう気に入った。Coldplayのヒット曲だそうだ。私はこれまで彼らの曲は一度も聴いたことがなかった。そういえば、パヴェルがこのバンドが好きだと言っていたのを思い出した。



Guns N' Rosesだけは、いくらデイヴィッドが弾いても好きになれない。マイケル・ジャクソンも、ストラディヴァリウスで弾くほどの作品ではない。

同列に並べるのもおこがましいが、チャイコフスキーも私は苦手だ。ロシア贔屓の私がなぜか彼だけは受け付けない。しいて言えば、私の嫌いなディズニーに通じるものが感じられ、どうにも鼻につくのである。


          *


どれを聴いても、最後はデイヴィッドのクラシック演奏に戻る。

フィレンツェやボローニャ、ウィーンで。オーケストラと、あるいはピアノとのデュオで。歴史のある荘厳な音楽堂も目の保養である。

もちろん、どのコンサートでもソリストとしてのデイヴィッドが一番注目を浴びる。

さすがにクラシックのコンサートでは、バイクブーツをやめて黒い革靴を履き、保守的な服装をしてはいるが、燕尾服に蝶ネクタイの指揮者や他の演奏者と並ぶと、開襟シャツにネックレス、ポニーテールは目立つ。

客は彼が目当てで、彼にスポットライトが当たるし、誰もが彼の引き立て役になってしまう。

そのくせ、デイヴィッドが指揮者とオーケストラの団員に非常に気を使っている様子がひしひしと伝わってくる。なにごとも控えめで、他の演奏者を立てようとするのだ。それでも、演奏が始まれば、やはり選ばれたソリストには華があるなと思わせる。


       *


コンサートに出かけて、ビデオや写真を撮る人たちがいる。

彼らのおかげで、私は居ながらにして演奏を聴いたり写真を眺めたりできるのだが、せっかく肉眼で見られるときにレンズを通すなんてもったいないと思う。

旅行に出かけて景色や建造物の写真を撮るのと同じだ。私はそういう写真は撮らない。めんどくさいし、そんなもの、ネットでいくらでも見つかるのにと、身も蓋もないことを考える。

それより、自分の頭や心に留めておくほうがいい。写真に撮らなければ忘れるくらいなら、その程度のことだと思う。

今月末に、デイヴィッドがニューヨークで1日だけコンサートをすると聞き及んだ。ダウンタウンの数百人しか入れない小規模な会場である。ぜひとも行きたいが、迷子になりそうだし、終電に間に合うかわからないしと悩む間もなく、チケットは即日完売したらしい。

おそらく、この手のチケットは迷ってはいけないのだ。まず買う。あとのことはそれから考えるくらいでないと、永遠にチケットなんか手に入らないのだろう。

どこまでも自分勝手な私は、誰かが上手にビデオを撮ってYouTubeにアップロードしてくれるのを待っている。



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ウィンブルドン2013

2013.07.09 (火)


ラファが初戦敗退、フェデラーとシャラポワが2回戦敗退というありえない展開で始まった今年のウィンブルドン。

シード選手の怪我や棄権も相次ぎ、こんな大会は見たことがないと驚いていたら、なんとセリーナが4回戦で負け、女子は混戦状態になった。

セリーナを破ったリシキに勝たせたいが、何年か前の決勝でビーナスにこてんぱんにされたバルトリにも勝たせたい。打つたびに雄たけびをあげない女子の試合は新鮮だ。いい試合になるかもしれないと思った。

しかし、蓋を開けてみれば、バルトリの圧勝だった。

独特のフォームやルーティン、コーチだった父親のことでたたかれる彼女だが、私はあんがい好きだ。独特な魅力がある。「我が道を行く」という風情がいい。テニス選手としては珍しいほどむっちりしているが、あれだけコートを動き回れるのだからなんの問題もない。

このめでたいときに、BBCのベテラン・スポーツキャスターが彼女の容姿について失言をして、袋叩きにあっている。

「シャラポワみたいな美人にはなれないから、人一倍努力しないとだめだぞと父親から言われたんじゃないですかね。」

新聞記者から意見を求められたバルトりの答がふるっている。

「正直言って、気にしてません。私がブロンドでないのは事実だし。モデルになりたいと夢見たことがあるか? ノーですね、悪いけど。ウィンブルドンで優勝することを夢見ていたか? もちろんイエスです。」

BBCのキャスターは謝罪したが、「誰もが6フィート(183センチ)のアマゾネスみたいな選手である必要はないと言うつもりだった」と弁解して、さらに墓穴を掘った。彼が身長の話をしていたのではないのは明らかだ。


        *


リシキはウィンブルドン決勝の雰囲気に飲まれたか、強豪を何人も破ったあとで気力が続かなかったか。いつもの笑顔がまったくなかった。あんなに硬い表情の彼女は初めて見た。

2セット目にダブルフォールトしたあとは泣いていた。まだベンチに戻れない、試合中のコート上である。

悔しくて惨めで涙が出るのだろうが、そういうとき男は怒ってラケットを投げつけたり、地面やボールを蹴飛ばしたりする。なぜか女は泣く。男だって、試合後は勝っても負けても泣くことはあるが、試合中はセットの合間でも泣かない。

これはテニスだけでなく、たとえば男女がけんかすると、男は怒って女は泣くという図式と同じだと思った。

そして、グランドスラムの女子決勝は6-1、6-2のように一方的なスコアになることがよくある。

2週間勝ち進んできたのだから、決して弱い選手ではない。それなのに、決勝ではまるで別人みたいになってしまう選手が珍しくない。ぜんぜん自分のゲームができない。見ているこっちがつらくなるほどである。

男も初めての決勝では緊張で実力を発揮できない場合が少なくないが、女ほど崩れることはまずない。少なくとも試合中は涙を見せない。その代わり、負けたときは試合後のインタビューでぼろ泣きするのがいる(例えばフェデラー、マレー、デルポ)。


        *


男子では、アンディ・マレーがめでたく初優勝した。

よかったよかった。あれだけのプレッシャーの中でよくやった。去年の決勝でフェデラーに敗れて、涙涙のスピーチを聞いたあとでは勝たせてやりたいではないか。

イギリスは77年ぶりのウィンブルドン勝者とあって、一夜明けた今日もBBCではライブのページが続いている。キャメロン首相が「アンディにはナイトの称号がふさわしい」などと言って浮かれている。

何年か前のインタビューでの冗談が悪く取られて、「あいつはスコットランド人だ、イギリスの敵だ」とずっと攻撃されていたが、これで少しは静かになるだろうか。ただし、「次は世界ランキング1位を目指せ」という声もあり、イギリス人も容赦ない。

ジョコビッチはデルポとの準決勝で消耗したらしく、精彩を欠いたが、最終セットでは彼らしい攻守を見せた。

それにしても、イギリスの観客の態度はひどかった。

相手のミスにいちいち大歓声を送る。全仏ではフランス人が、全米ではアメリカ人が自国の選手を応援するのだから当然とは言え、「イギリスは紳士淑女の国」なんていうのは、「イギリスには妖精が住んでいる」というのと同じような話だと思った。


           *


男子では、ポーランド人同士の準決勝がよかった。

ジェルジ(アメリカではこう呼ぶ。本当はイェジが近いらしい)・ヤノヴィッツが気に入った。

対戦相手のルーカス(これもアメリカ読み)・クボットのほうがハンサムだが、ヤノヴィッツのほうが背が高く、キャラクターがおもしろそうだ。どことなくサフィンを彷彿とさせる。テニス観戦の楽しみが増えた。

ヤノヴィッツは、彼をサポートするために両親が自宅を売ったり、2年前の全豪オープンには旅費が捻出できなくて出場できなかったり、いつかの全米オープンでは誰かに靴を寄付してもらわねばならなかったほど苦労してきた。ホテル代を節約するために車の中で寝泊りしたと聞いて、2メートル4センチもある人が気の毒にと思った。でも、スポーツにはそういうハングリー精神があってこそなのかもしれない。

テニスは個人競技だが、プロ・レベルではチームスポーツと呼びたくなる。

コーチやフィットネス・トレーナーはもちろん、練習相手となるパートナー、マッサージから栄養士までついて、選手を勝たせるために一丸となって戦う。優勝後のインタビューでは決まって、「チームのおかげです」と選手は感謝の言葉を述べる。

コート使用料にスポーツジムの会費。遠征の旅費とホテル代と食事代。チームのメンバーにも給料を払わねばならない。しかも、テニスはほぼ1年中、世界のどこかで試合がある。巨額の賞金は大きな大会で勝ち進む場合に限られる。スポンサーがついて、コマーシャル契約を結べるくらいにならなければ続かないと思う。

ヤノヴィッツはウィンブルドンの準決勝では、緊張と疲労の両方か、彼らしいプレーができないまま、マレーにストレート負けした。ただし、試合中には泣かなかった。

これだけの選手がいまだにツアーで一度も優勝したことがなく、ランキングは錦織より下なのだから驚く。全米オープンが待ち遠しい。


        *


昨日はバイオリンで、今日はテニス。自分の好きなことだけ好きなように書けるブログは楽しい。


<今日の英語>

The BBC is a mere shadow of what it once was.
BBCにはかつての面影はない。


バルトリに女性蔑視のコメントをしたBBCのスポーツキャスターに集まった批判の、ほんの一例。なんだか最近スキャンダルの多いイギリスの公共放送局。



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その後のパヴェル

2013.07.14 (日)


パヴェルの卒業式は5月だった。

私は行かなかったが、あとで送ってくれたビデオには、スーツ姿のパヴェルが他の卒業生といっしょに壇上に向かう姿があった。彼の両親も弟もベラルーシから来られなかった。離婚が成立して前妻となったアンナもいなかったが、親友がベラルーシから来てくれたと聞いた。

卒業証書を手にしても、彼はすぐには仕事を見つけることができなかった。

学生ビザは切れるだろうし、ベラルーシ国籍の人間がいつまでもEUにいられないだろう。どういう滞在許可かわからないが、とりあえず学生時代のアルバイトをそのまま続けていた。


         *


クリスマス休暇に、パヴェルはベラルーシに帰った。

離婚が成立し、大学を卒業してから初めての帰省だった。奥さんだったアンナは彼の母親と折り合いが悪かったので、その気苦労はなくなった。でも、ロシア正教会できちんと式をして、お披露目パーティもしたのに、こんなに早く破局してしまったのは気まずかったと言い、母親を失望させたことに自嘲気味だった。

しかし、言い争いばかりしていたらしい結婚生活に見切りをつけたのはよかったのだ。

しばらく女はこりごりだろうと思っていたら、パヴェルはベラルーシで新たな出会いがあったことを知らせてきた。

名前はカーチャ(エカテリーナの愛称)。

お針子をしている子で、彼が送ってきた写真では前の奥さんより優しそうに見えた。かわいいし、若い。

「カーチャとはすごく気が合って、一度ドイツに遊びに来てもらおうと思ってる。でも、彼女はドイツ語ができないんだ。それで、ぼくが語学学校をベラルーシで見つけてあげた。授業料はぼくが出すから、ドイツ語を覚えてほしいと思って。」

「いい人そうね。ドイツ語が上手になるといいわね」と私は返事をした。

でも、短かった最初の結婚がだめになって1年も経っていないのに、この早い進展には疑いが晴れなかった。アンナとも電車の中で出会って、同棲し始めたと思ったらまもなく結婚した。また同じような結果になるのではないだろうか。それより、今は仕事のほうが大事じゃないんだろうか。

「実は、今度はぼくの母が反対してるんだ。カーチャが気に入らないみたいで。ともかくあの娘はよくないって。そりゃ、最初の結婚があんな形で終わって、アンナと母は歩み寄れなかったし、慎重になるのはわかるけど。」

ドイツの大学を出た息子に、お針子の妻を迎えるのがいやなのだろうか。なぜか彼の母親は反対する理由をはっきり言わなかった。


            *


翌年の3月、パヴェルはやっとフルタイムの仕事を見つけ、そのためにボンの近郊に引っ越した。

私はほっとして、おめでとうと励ましのメールを送った。もはや以前のように頻繁なやり取りはなくなり、大雪や事故のニュースがあるときに安否を尋ね合ったり、お互いの誕生日にメッセージを送るくらいで、No news is good newsという形に落ち着いていた。

新しい職場はロシアと取引があるドイツの会社で、英語もロシア語もできる彼は重宝だったらしい。ただ、最初はモスクワ出張に出かけたり、会社から車を貸与されたりして張り切っていた彼も、給料の割りに長時間働かされて、悩んでいるようだった。

「なにか問題が起きると、上司がぜんぜん関係ないぼくに責任を押し付けるんだ。こっちの言い分なんか聞いてくれない。遅くまで働くのはいいけど、理不尽な扱いはうんざりする」とパヴェルはメールで不満を訴えることが増えた。

彼がベラルーシ国籍であることで足元を見られているのかもしれないと私は思ったが、「ここでの経験がきっと将来の役に立つわよ」と当たり障りのないことを書き送った。

せっかくドイツで学位を取ったのに、このままでは彼がベラルーシに帰ってしまうような気がした。

いったい帰国してどんな仕事に就けるのだろうか。なにより、彼は徴兵の義務をまだ果たしていない。悪名高いロシアの軍隊ほどではないにしろ、ベラルーシの軍隊にもいじめはあるだろう。


         *


そのうちパヴェルはますます忙しくなり、私は長男の大学進学で頭がいっぱいになって、連絡が途絶えがちになった。

彼は他の仕事を見つけようとしたがうまくいかず、不満を抱えながら同じ職場に留まっていた。久しぶりに届いたメールは、また悪い知らせだった。

「カーチャが他の男と関係していたよ。ベラルーシとドイツで離れているけど、信じていたのに。あれから、また家に戻ったときになんかおかしいなと思って、彼女に本当のことを言ってくれと問い詰めたんだ。そしたら、最初は否定してたけど、最後には白状したよ。ショックだった。でも、いっしょに居られなかったぼくも悪かったし、彼女は泣いて謝って二度と裏切らないって約束したし、もう一度だけチャンスをあげることにした。」

彼の母親はカーチャを見抜いていたのだろうか。

そんな話を聞いてから、この娘はだめだ、いつかパヴェルを傷つけるだろうと苦々しくなった。でも、私は彼女に会ったこともないし、そもそも何も言う権利はない。

彼は以前より頻繁にベラルーシに帰っていたようだった。次の休暇には、ベラルーシのクリスマスの様子をビデオで送ってくれた。クリスマス・ディナーを囲む彼の家族や、ライトが煌く街の様子が写っていた。カーチャともよりを戻したらしかった。


           *


6月になって、長男の大学が決まり、私は報告を兼ねて久しぶりにパヴェルにメールを書いた。

すぐにお祝いの返信があった。

「じゃあ、ぼくからもビッグ・ニュース。来年の夏、結婚することにしたよ。あなたとご主人と子どもたちも(これで最後の!)結婚式に来てくれるとうれしいな。日取りや場所は年末までに決まると思う。」

私は唖然とした。

あんなことがあったカーチャと、なぜ慌てて結婚しようとするのだろう。アンナとの結婚から何も学んでいないのだろうか。カーチャを嫌っていた彼の母親はどう思っているのか。いくらなんでも。

「素晴らしいニュースをありがとう。幸せにね。私たちも参列できたらいいんだけど。カーチャはもうドイツに来ているの? ドイツ語は上達した?」

私の疑問に対する彼の返事もまた予期できないものだった。

「あなたのメールを読んで、ぼくが以前送ったはずのメールが届いてないことに気がついた。ぼくが結婚するのは、ユリアだから。

今年の1月5日にブレストで出会って、それから彼女がドイツに遊びに来て、話せば長くなるんだけど、つまり彼女はぼくの人生を完全に変えてしまったわけ。ぼくにとってパーフェクトな女の子で、お互いを理解し合って、口げんかしないでいっしょに居られる関係がどういうことか、彼女のおかげでやっとわかったよ。」

ユリアは22歳で、英語とドイツ語の学位を取得したばかりだった。若いのにいろいろ苦労してきた娘で、その点パヴェルと共通点もあって、思いやりがありそうだった。

「彼女にあなたのことを話したら、ぜひ会いたいって」と言うパヴェルに、いったいどこまで話したのかしらと私は昔のことを思い出した。



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その後のパヴェル 2

2013.07.16 (火)


その1ヶ月前、彼はドイツでの仕事を辞めて、ベラルーシに帰っていた。

「トラブルが起きるたびに、ぼくがスケープゴートにされた。しかも、残業代も払ってくれなくなって、もう耐えられなくなった。未払いの残業代については係争中で、どうなるかわからない。」

そして、彼は実家に戻り、そこにユリアもいっしょに住んでいるらしかった。彼の友人たちが、仕事もお金もないのに若く結婚して両親と同居せざるを得ないのを見て、ああはなりたくないと言っていたのに。

私が案じていた軍隊からの呼び出しはなく、彼はもう一度ドイツで仕事を見つけようとしていた。

「いい仕事について、人生を立て直さなくちゃ。ユリアとアメリカに遊びに行きたいし。もちろん結婚してから。結婚もまだ具体的にはなにも決めてない。すべては仕事が決まってからだからね。夏の終りにプロポーズするよ。」


       *


それから、また連絡が途絶えた。

秋になり、私の誕生日に届いたメールには、もうすぐ仕事が決まりそうだとあった。そして、結婚はとりあえず役所で手続きだけ済ませたとのことだった。

「ユリアとぼくの家族で小さいお祝いをしただけだけど、2013年の夏にはちゃんとした式をあげようと思ってる。短いけど、二人のビデオを送ります」とリンクが張ってあった。

ユリアは小柄で、おとなしそうな娘だった。アンナやカーチャのような美人ではないのを見て、なぜかほっとした。今度の結婚はうまくいきそうな気がした。

その頃、私は次男の状態が気がかりで、たいしたことはないと自分に言い聞かせながらも、もしかしたらこれは深刻なのかもしれないという懸念を拭い切れないでいた。

「おめでとう。ユリアと幸せにね。仕事がきまったら教えて。いい知らせを待っています。私のほうは長男が大学に行って、やれやれなんだけど、ちょっと次男のことで気にかかることがあって。ティーンエージャーだからいろいろあるのよ。あの子の大学進学も心配で、落ち着きません」と、病気の具体的な話はうやむやにしてしまった。


         *


パヴェルの仕事が決まったのは、年が明けてからだった。

「やっといいニュースが届けられるよ。これですべてうまくいくといいな。いつか、あなたに電話していい?ずっとメールだったけど、あなたさえよければスカイプで連絡するのはどう?」

私はすぐに返事を書かなかった。

次男はすでに3回も入退院を繰り返し、学校は長期欠席、パヴェルのメールが届いた翌週には別の病院に転院することが決まっていた。

先が見えない日々に私は憔悴してしまい、パヴェルとスカイプでチャットする気力はなかった。やつれて老けた顔を見られるのもいやだった。

私は、パヴェルにはほとんど何でも打ち明けてきたが、仕事も見つかって新しい奥さんもできて幸せそうな彼に悪いニュースを伝えるのがためらわれた。

でも、これ以上隠しておけない。私は次男の病名を告げた。

「次男の状態があまりよくないの。今日、州立の専門病院に移ることになって、私も本人もかなりショックを受けてるのよ。あの子はどうだかわからないけど、私はいまだにあの子の病気が受け入れられなくって。悪いけど、スカイプはもう少し落ち着いてからでいいかしら。またメールします。」


         *


それから1ヶ月、パヴェルから何の連絡もなかった。

やっと短い返事があったのは、2月の半ばだった。私と同じく、彼も次男の病気は信じがたいらしく、医者の見立て違いではないかと遠慮がちに書いてあった。

「ぼくが知っている次男くんはまだ子どもだったし、今は大きくなってるから変わったかもしれない。でも、とてもそんな病気になるようには思えない。ぼくにできることは何もないかもしれないけど、せめてあなたといっしょにいてあげられたら。そして次男くんにサマーキャンプでの楽しかった思い出を話して元気づけてあげられたら。あなたのメールから1ヶ月経ってるから、よくなっているといいんだけど。」

次男はよくなっていなかった。

私には症状が落ち着いて見えたが、医療チームからは退院の見込みどころか外泊の話も出なかった。

私はパヴェルに返事をしなかった。


         *


4月の初めに、またメールが届いた。

「あれから連絡がなくて、心配しています。次男くんの病状はどう? それに、あなたはだいじょうぶ? ぼくにできることがあれば、なんでもするから言って。ぼくのほうは、まあまあ。ユリアのビザが下りるのを待ってるところ。3か月分の給料明細を出さなくちゃいけないから、ちょっと時間がかかった。」

私は今度はすぐに返信した。

「次男はまだ入院してるの。2~3ヶ月で出られると思ってたのに、そうじゃなかったわ。でも、病院は新しいし、医療チームも前の病院よりずっとよくやってくれてるみたいで、それだけが救いかしら。」

そうして、次男は良くなったり悪くなったりを繰り返し、私は病状よりも学校の勉強や大学進学のことが気になり始めた。一方で、最終試験を終えた長男をボストンまで迎えに行き、日本へ行く支度もせねばならなかった。出発直前のゴタゴタから、戻ってから時差ぼけが取れるまで、パヴェルのことを考える余裕はなかった。

7月になって、私は近況を書き送り、彼からの返事を待った。


        *


数日後、パヴェルから長いメールが来た。

次男の病気がまだ信じられないと言って、彼なりの見解を長々と述べた。

それを読みながら、私はとてももどかしく思った。見当違いなことも書いてあったし、なによりも議論の段階はとうに過ぎていた。でも、彼にそんなことがわかるはずもない。

ユリアにビザが下りたのは6月。二人はアパートでいっしょに暮らしていた。「小さな問題はいろいろあるけど、ぼくは心から信頼できて愛する女の子に会えて、やっと幸せをつかめた。それは本当によかったと思う。」 

パヴェルの仕事は、とある会社のセールス部門で、「昇給も望めず、昇進の機会もなく、一生続ける仕事じゃない。」 でも、ユリアはまだ仕事がないし、彼には選択の余地がなさそうだった。

今は、愛があれば幸せなのだろう。小さな問題というのは、お金がらみのことか。それが大きな問題にならなければいいが。

彼は、私の夫のように大きな家を建てて、奥さんと子どもと余裕のある暮らしをしたいとよく言っていた。もしそれが実現できないとわかったとき、彼はどうするだろう。


         *


「仕事のせいで今年の夏はベラルーシに帰れない。来年の夏にはあっちで結婚式をしたいけど、まずお金を貯めないとね。そうだ、10年落ちのニッサンを買ったよ。古いけど、調子はいいし、満足してる。秋になったら、ユリアの24回目の誕生日をかねて、どこかあったかいところに遊びに行きたい。今のところ、それが一番の夢かな。」

「ぼくのもう一つの夢は、あなたの家族とぼくとユリアでどこかで楽しく過ごすこと。いつかきっとそういう機会があると思う。もう10年前だけど、あなたと会ったときのことやぼくが大学に行く手助けをしてくれたことを今でもよく考えるよ。アメリカであなたといっしょに過ごした時間をもう一度やれと言われたら、もちろん喜んでそうする。でも、そんな時間は二度と戻ってこないこともよくわかってる。」

まるでこれが最後のメールみたいに、昔のことを思い出話のように書いてあった。

私が空港まで迎えに行ったのに他の知り合いの車に乗ったことを今さら持ち出して、私に詫びた。そして、子どもたちとトーマスと一緒にカヌー乗りに出かけ、私とパヴェルのカヌーがひっくり返ってずぶぬれになったことや、それを見た子どもたちがはしゃいだこと。

10年前、彼は21歳だった。

希望に満ちた、世間知らずの若者は、もういない。



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女の権利

2013.07.20 (土)


テキサスの州議会上院で、中絶を制限する法案が可決された。

先日、民主党のウェンディ・デイヴィス議員が11時間も演説を続けて、いったん阻止できたものの、州知事リック・ペリーが署名して法律になった。ブッシュといい、ペリーといい、まったくテキサスはどうしようもないクズを知事に選出してくれる。

私はニュージャージーに6年、ニューヨークに18年暮らした。どちらも夫の仕事の都合だったので、選択の余地はなかった。

どちらも自由な、あまり他人に干渉しない町で、いま思うと非常に幸運だった。教会に所属しない人間が異端視される保守的な町や(汝の隣人を愛せよ?)、一家に何丁もの猟銃やピストルが標準装備になっている狂信的な町(汝、殺すなかれ?)に住むはめになったかもしれないのだ。

渡米前、私はアメリカの政治はあまり知らなかったし、興味もなかった。日本の政治についても同じだったので、どこに住んでも人間はたいして変わらないのかもしれない。

ただし、自分はリベラルだという意識はあった。

結婚するにあたって、ものの考え方は経済力と同じくらい重要だと思っていた。夫はその点で合格だったし、思想の違いによる諍いをせずに済んだ。ものをためこむとか時間にルーズだとか、気に食わないところは山ほどあるが、夫も私に注文はあるだろうし、お互いさまか。

私は「保守反動の牙城」と言われる田舎で生まれ育ったのに、いつどうやって左に傾いたのだろうか。

もっとも夫に言わせると、私は社会的な問題にはリベラルで、財政的にはコンサーバティブなのだそうだ。


        *


テキサスの法案は、妊娠20週以降の堕胎を禁止するだけでなく、中絶手術を行うクリニックは大病院並みの登録条件を満たさなければならないなど、1973年にアメリカ最高裁判所の判決でやっと合法化された中絶を制限しようという企みである。

ミシシッピやアラバマ、アリゾナなど他の保守的な州でも同じような動きがあるらしい。

私は自分がフェミニストだと思わないし、何の活動もしていない。

女性が重要なポストについたり、目ざましい活躍をしたりするのを聞けば喜ばしいが、しょせん私には関係ない。まあ優秀な皆さんはがんばってくださいと思うだけだ。

しかし、中絶の権利だけは絶対に譲れない。

中絶の経験はないし、中絶したという知り合いすらいない。でも、中絶が合法でなかったころ、闇医者で堕胎手術を受けたり、針金のハンガーなど空恐ろしい手段で自分で堕胎を試みたりした女たちの話は読んだ。命を落とすか、不具になるか、健康を損なってつらい人生を送るか、こんなに理不尽なことはないと思った。

どういう理由であれ、中絶するかどうかは女が決めるものだ。

それを政治家や宗教団体に勝手に押し付けられると、無性に腹が立つ。

ほどんどの団体で男が過半数を占めている。女でもペイリンやバックマンみたいに頭が空っぽな輩もいるので、女を政治家にすれば万事解決ではないが、女の体をどう扱うかを男に指図されるなんて、考えるだけでムカムカする。


        *


今回の法案により、テキサス州政府の理不尽な規定に満たないクリニックは閉鎖に追い込まれる。あの広いテキサス全体で5軒しか残らないという報道もあった。テキサスの女は堕胎できる病院を求めて、遠方へ行かねばならない。そのためのお金や手段がなければ、「非合法な」やり方で堕胎するしかない。

合法化して40年たって、これか。

今回の中絶法案に賛成したテキサスの男どもは全員去勢してやりたい。

中絶する権利を阻害するなら、最初から妊娠させるなと思っていたら、「あなたのためを一番に思ってくれない男とはセックスするな」とテキサスの女性たちにセックス・ストライキなるものを呼びかけるコラムを見つけた。

異議なし。


<今日の英語>

That reminds me.
それで思い出した。


最近とくに物忘れの激しい夫と私。話をしながら、なにかの拍子に「そういえば」と他のことを思い出す。お互い、このフレーズを使わない日はない。



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息子を持つ母親の役目

2013.07.21 (日)


去年タリバンに銃撃されたパキスタンの少女マララが先週、平和と教育の権利について国連で演説した。彼女は普通に学校に行って勉強したくて、女子校を破壊する活動を批判しただけで、テロリストの標的になり、頭を撃たれた。よくあそこまで回復したものだ。

何週間か前、パキスタンで女子大生の乗ったバスが爆撃されて、負傷した彼女たちが運び込まれた病院までもが襲撃され、25人が死んだ。

教育を受けた女をなぜ恐れるのかといえば、男に自信がないからである。

そういう男も、女である母親から生まれてきて、姉妹あるいは自分の娘すらいるかもしれないのに、どうして女を傷つけようとするのか。

宗教とか因習とか社会制度とか、いろいろ原因はあるだろうが、たとえばインドは中国以上に男女の数のバランスが崩れているのだそうだ。誰もが男の子がほしくて産み分けをしているうちに、男の子たちが成人してみれば、女の子が少なくて、あぶれてしまう。そんなことも女性に対する犯罪が増える一因だという。

しばらく前に、ニューデリーで映画を見た帰りのバスで若いインド人男女(婚約者)が複数の男たちに襲われて、女性はレイプなんて言葉では言い表せないくらいの残虐な肉体的暴力で2週間後に亡くなった。

あいかわらず、持参金が少ないせいで夫の家族に奴隷扱いされたり、恋愛の噂だけで不名誉だとして親族になぶり殺されたりする若い女性の話も多い。あまりにも悲惨な一生で、いったいなんのために生まれてきたのかわからない。

ぼんやり暮らしている私には想像するのもむずかしい。

ここでも思う。

男は、これが自分の姉、妹あるいは娘だったら、お嫁に行った自分の娘や姉妹が婚家で同じようなひどい目にあっていたらと一瞬でも考えないのだろうか。


         *


私には息子が二人いる。

これといった教育方針もないまま、日々の忙しさにかまけて、気がつけばもう19歳と17歳。いい加減で、失敗ばかりしてきた私の子育てだったが、それでもよくよく言い聞かせてきたことがいくつかある。

たとえば、人に迷惑をかけない。世間に後ろ指さされるようなことはしない。ドラッグとタバコは絶対にやらない。

そして、女をだいじにする。

いつも威張っていて、夫にも言いたい放題な私では説得力がなかろうが、とにかく女は大切に扱わなくてはならないと教えてきた。

「子どもを産むっていうのは、本当に大変なのよ。9ヶ月も自分のお腹の中で赤ちゃんを守るわけでしょ。あともう少しで産まれるとなると、トイレは近いわ、足腰は痛いわ。お腹が大きすぎて寝返りもできないし、しょっちゅうトイレだから熟睡できないし。それにいざ産むとなったら、男は役に立たないのよ。お医者は別よ。女が自分一人で戦うしかないの。背中なんかさすってもらったって、うっとうしいだけ。ダディに『触らないでよ!』って怒ったの覚えてるもの。」

息子たちは神妙に聞く。

「ハイ、いきんでくださいって、やったことないのにできるわけないじゃない? 麻酔が強いから腰から下の感覚もないしね。お母さんなんて『もうできません!』って何度言ったか。疲れちゃってどうでもよくなったのよ。でも止めるわけに行かないから、産むじゃない? 産んだあとも大変なのよ。赤ちゃんが出てくるとこが裂けたりとか、血だらけになったりとか、痔になったりとか。産んだら産んだで、結局母親が赤ちゃんの面倒を見るのよ。最初の3ヶ月くらいか、とにかく眠れないのがつらいわね。お母さん、発狂するかと思った。」

こんな話を何度したかわからない。

「男はね、結局孕ませたら終わりなの。そりゃ、働いてお金を稼ぐのも必要だし、たいへんだけど、やっぱり子どもを産むっていうのは女しかできない重要なことよ。産まなかったら人類は滅びるでしょ。妊娠や出産は病気じゃないっていうけど、私は命がけだと思うわ。長男のときは、最後には他のお医者が応援に来たくらい、なかなか生まれなかったのよ。昔だったら助からなかったんじゃないかって。」

子どもを産まない女、産めない女もいるから、産んだ女だけが大変だとか偉いとか言ったつもりはない(彼らは私が独身の姉をどれだけ尊敬しているか、よく知っている)。

女の体は男と違うのだから、いたわってやらねばならないというメッセージを一番簡単に伝えるには、出産の話がわかりやすいのだ。

PMSについても話した。そうでなくても、彼らは毎月1回私の機嫌が極端に悪くなるのを見ていた。

もっとも私は自覚がなく、「いやあ、昨日は何を怒ってたのかね。近づけないくらいピリピリしてたよ」と夫に言われては、「え? なんのこと?」と不思議に思ったものだ。

いまでもニュースを聞きながら、「結局、傷つくのは女なのよねえ。女は大変なのよ。ライオン見てごらんなさい。雄ライオンなんか、タテガミの手入れしてるか、無駄に吠えてるか、ゴロゴロ寝てるかじゃない。メスは子育てしたり、獲物を捕まえたり、必死よ。忙しいのよ。オスはたま~に用心棒の真似をするだけみたいね。うちの猫見たってわかるじゃない」と無芸大食で寝てばかりいるくせに甘えん坊の兄猫を指差す。


        *


うちの息子たちには、女に暴力をふるうような腐った人間にだけはなってほしくない。

男の子を育てながら、それが母親としての私の一番の仕事だと思った。

母親だけの責任ではないにしろ、同性としてまず私が女の権利をたたきこもうと思った。

ドメスティック・バイオレンスの報道を目にするたびに、それが肉体あるいは精神あるいは経済的な暴力であれ、いかに卑劣な行為であるかと子どもに話す。息子たちがどこまで理解しているのか共感してくれているのか、知る由もない。

それと同時に、世の中には悪い女もいることも教えねばならない。

一昨日、長男がその日はどうしても夫の運転手役をやりたくないとぐずぐずしていた。「じゃあ、ダディにそう言えば?」と私が促すと、「だって、ダディ怒るもん。それか、ごちゃごちゃ言うもん。ぜったい運転しろって言うよ」と長男は渋る。

しょうがない、私が代わりに直談判してあげましょう。

夫の部屋から戻って、「話してきたわよ。わかったって。今日は自分で運転するって」と長男に伝えた。

「よかった。よく説得できたね」とほっとしたところへ、「簡単よ。今朝、スーパーに行ったとき、あんたの運転が注意散漫でひどかったって、昨日の空手で相当疲れてるみたいだから、遠いお医者さんまで運転させるのは危ないって言っておいたわ。」 

ぜんぶ嘘である。

口をあんぐりさせる長男に、「この程度の嘘、どの女の人だってまばたきもしないでつけるわよ。あんたもダディもそうだけど、男って嘘が下手よね。すぐ顔に出るし、作り話のつじつまが合わないからミエミエなのよ。女は息をするように嘘がつけると思うの。だから、あんたも女の言うこと、全部は信じちゃだめよ」と忠告した。


         *


息子たちには女を大事にしてほしいが、か弱いだけの存在だとも思ってほしくない。

女はしたたかな生き物である。

「女はリアリストなの。男のほうがよっぽどロマンチストね。女はとにかく子どもを産んで育てたり、ご飯作って食べさせたり、忙しいのよ。戦争ごっこなんかしているヒマ、ないの。

傾国の美女って言って、王様がものすごい美人に夢中になって、政治どころじゃなくなって、ついに国が滅びたっていう話は昔からあるけど、でもその美女のせいじゃないと思うわ。その程度の男だったってことよ。

それにしても、傾国の美男っていうのは聞かないわねえ。絶世の美男におぼれて国を滅ぼした女王様なんか、いないんじゃない? そこが現実主義者、リアリストってことよ」と私の話はどんどんずれていく。

「女って、こわーい」と半ばふざけて長男が言った。

その認識は間違っていない。


<今日の英語>

Don't talk to your mother like that.
お母さんに向かって、その口の利きかたはなんだ。


たまに反抗的な口をきいた子どもたちに、夫が戒めたときのせりふ。私と子どもたちは日本語で話すが、夫は語調や雰囲気で判断する。そういうとき、私は必ずフォーマルなmotherであって、momではない。夫の本気度が伝わる。



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ご近所ゴシップ

2013.07.28 (日)


最後に近所の人と話をしたのはいつだったか。

私は近所付き合いをしない。

郵便受けを見に行ったり、芝生を直したり、雪かきをしたりするときに、たまたま誰かが通れば手短かに世間話をする程度。タイミングが合わないと、誰にも会わないまま季節が終わる。

このへんは敷地が広く、隣や向かいも離れている。どこに行くにも車なので、道路ですれ違うことはあるし、たまには犬の散歩をしている人を見かけるが、手を上げて合図するくらいである。

私はそのほうが気楽で好きだ。でも、これなら孤島の一軒家に住んでも同じだなとたまに考える。夫は私以上に引きこもっているので、おそらく近所の人たちは私たちを変わり者だと思っているだろう。

まあ、そんな私にも挨拶をしてくれるし、疎まれている気はしない。この住宅地にいるアジア人は中国からの養女を除けば私だけだが、差別されたことはない。むしろ、なぜか気を使ってくれているふしがある。

ただし、見えない壁のようなものは常に存在する。

どっちにしろ、私は人種に関係なく、相手に踏み込まれるのも自分から相手の懐に飛び込むのも苦手なので、壁を作っているのは私かもしれない。

子どもたちが小さい頃は、スクールバスが止まる所で、あるいはプレイデートで行き来があったが、すっかり疎遠になった。そんな私の情報源は主にお隣のご夫婦で、ドライブウェイが並んでいるだけあって、一番顔を合わせる機会が多い。

これは、彼らが教えてくれた過去1~2年ほどのゴシップである。


       *


なかなか売れなかったお向かいの家が、市場価格の半分程度の売値で取引された。

しばらく空き家のようになっていたのを、担当していた不動産エージェントが買い取った。お向かいのS夫妻はまだローンを払い終えておらず、エージェントがまるっきり肩代わりするような形になった。そして、それをまた他の人に売ったという話だ。

お向かいには、クリスマスの前日に大きな引越し用のトレーラーが来ていたが、実は、ご主人はその半年以上前にフロリダに移り住み、奥さんだけが残っていた。

もともと心臓を患っていたご主人は、フロリダで3回目の手術を受けた。奥さんはニューヨークとフロリダを行ったり来たりして、家が売れるのを待っていたらしい。しかし、あまりにも長い間、買い手がつかなかったため、とうとう前述のような形で家を手放したそうだ。

新しい住人は、ご夫婦とハイスクールに通う女の子らしい。私は娘さんと一度話したことがあるだけで、ご主人は車から見かけて手を振っただけ、奥さんには会ったこともない。たまに、大きな音量で若者向けの音楽を流しながら、お向かいのドライブウェイを早いスピードで上がっていく車を見た。もしかしたら、男の子もいるかもしれない。

引越しの挨拶もないし(私の知る限り、このあたりではわざわざご近所を訪問して挨拶することはない。顔を合わせたときに自己紹介をするだけ)、1年半前に引っ越してきたお向かいは未知の人々である。


        *


お向かいとほぼ同じ時期に家を売りに出した、この通りの行き止まりに住んでいたC家。

そちらも時間がかかったが、普通に買い手がつき、不動産エージェントの「売れました」というPR葉書がうちにも届いた。

Cはこの近所ではちょっと変わった一家で、ブルーカラーの色が濃い自営業の人たちだった。クイーンズの家を売って、ローンなしでその家を買ったのが自慢だった。しかし、家の中を大きなラブラドル・リトリーバー(これもブリーダーから買った純血種という自慢)が走り回り、子どもがローラースケートで室内を移動するという有様で、ちょっとスノッブ気取りの他の奥さん連中からは陰口をたたかれていた。

息子ばかり3人いたが、あまり勉強のできるタイプでなく、バイクやクワッドを乗り回していた。それでも、上の二人はハイスクールを卒業して、コミュニティ・カレッジ(2年制大学)かテクニカル・カレッジ(専門学校)に行ったようだった。

一番下の子は長男より一つ下で、家を売りに出したときにはまだハイスクールの2年目が始まったくらいだったか。なぜかスクールバスには乗らず、いつも親が送り迎えした。その子は小さいときからトラブルを起こしがちで、うちの息子たちは関わらないようにしていた。

それにしても、おかしな時期に家を売るなあと思っていたら、離婚して財産を分配するためだったとお隣のご主人に聞いて驚いた。

ちょっとしたお店を開いたり閉めたりを繰り返していたチェーンスモーカーの奥さんと、粗野な感じの大柄なご主人は、釣り合いが取れていて、よく行動を共にし、親しそうだった。しかし、よく考えたら、私は彼らを何年も見ていない。その間に、夫婦の間が壊れたのだろう。そうでなくても、見かけはベタベタくっついているカップルほどあっさり別れたりするのだ。

下の子がハイスクールを卒業するまでの2年ほども待てなかったのかと思うのは、日本人の感覚かもしれない。50代前半か半ばの夫婦である。

家が売れて、奥さんは一番下の子を連れて隣町へ引っ越した。ご主人はイタリアン・デリを買い取り、上の子二人と切り回しているらしい。

彼らの住んでいた家に引っ越してきた新しい住人には会ったことがない。


         *


斜め向かいのS家には、長男より一つ上の男の子と、次男と同級の男の子がいる。

上の子はボーイスカウトをずっとやり、ブラスバンドもボランティアもして、成績も悪くなさそうで、州立大学に入った。

合格直後に彼のお母さんとスーパーで出くわせたとき、ミュージック・マネージメントを勉強するのだと聞いたが、どういうものかよくわからない。お堅い両親がよくそんな専攻を許したなと思った。

大学は車で3時間のところにあり、ホリデーや長い週末には自分で運転して帰ってきたらしかった。バスや電車はない。

なぜか春ごろから、やたらとその子の白い車を見るようになった。ドライブウェイや道路わきに駐車してあるのを見るたびに、「あれ、また帰ってきてるねえ」と車で通りがかりに長男や次男と話したものだ。

大学は休みが多いし、州立はそのへんの私立とはスケジュールがちがうのだろうと思っていたが、それにしてもあまりにも家に入り浸りすぎじゃないだろうか。あの家の子たちは幼いところがあったから、ホームシックかなと思った。

「エディくん、ゲーム・ストップで働いてるって」とある日、長男が言った。

「どういうこと? 大学はどうしたのよ? まだ1年目の途中でしょ」と私。

「辞めたみたいだよ。よくわかんないけど。」

「辞めたって…ついこの間、合格したんじゃないの。あの子、ボースカウトもやってたし、ミュージックなんとかって好きな専攻だったんでしょ。SATも受けて、願書も書いて、あれだけ苦労したのに、そんなにあっさり辞めるなんて、もったいない!」と、ちょうど長男の大学進学の準備にカリカリしていた私は信じられなかった。


        *


そのニュースを聞いてから、すでに1年以上が過ぎたが、私はエディの両親と話す機会はなかった。車で通り過ぎるときに、手を上げて挨拶するだけだ。

次男や長男が仕入れてくる情報では、どういう事情だったのかいまだにわからない。

エディの両親はそうとう悩んだに違いない。

ブルーカラーのC家と違って、彼らは昔から子どもの教育や進路に真面目に取り組んでいた。でも、本人が大学を辞めたい(休学したい)なら、親がいくら止めてもしょうがないのか。

義母の孫の一人アンドリューも、大学1年目でドロップアウトした。ゲーム中毒で授業に出なくなったらしい。その後、2年ほどアルバイトなどしていたが、義母の家に同居して、コミュニティカレッジからやり直し、また別の大学へ編入している。

アメリカでは珍しくない話だが、エディは真面目だっただけにまったく予期できなかった。両親が厳しくしすぎたのか、遅くやってきた反抗期か。S夫妻の気苦労は大変だろうなあと思った。

しかし、その後、うちの次男の発病と入院により、大学が1年遅れになる可能性が出てきて、こちらも他人事ではなくなった。

しかたがないとはいえ、「高校を卒業して、大学に入って、4年で卒業して」という日本の標準コースが頭にある私にはなかなか受け入れがたく、「長い人生、1年くらいどうってことないわ。スケジュールどおり大学に入っても、アンドリューやエディの例があるんだから」と無理に思い込もうとしている。

もし次男のことがなければ、私は大学を中退するような子を見下していただろうが、今はレールを外れた彼らの存在がありがたいくらいなのだから、なんとも身勝手なものである。


      *


ゴシップついでにもう一つ。

長男と同級で、大学1年目を終えて夏休みで帰省しているお向かいの娘さんが、一昨日ストローラー(乳母車)を押しているのを見た。

「まさか、あの子の赤ちゃん?」と思った。彼女は、ハイスクールのときからボーイフレンドとベタベタとくっついて近所を散歩していて、シニア・プロムにもいっしょに行って、かなりシリアスな付き合いを長く続けていた。もともと勉強よりもパーティが好きなタイプだった。

おそらくベビーシッターのアルバイトだろうが、19歳で妊娠・出産というのもありえない話ではなく、えげつない私はちょっと気になる。


<今日の英語>

Back to the salt mine.
面倒な仕事に戻るとするか。


G氏がスタートアップのメンバーに送ったメールの最後に書いた一言。岩塩鉱山、ひいては単調でつまらない、きついがやらねばならない仕事。メールでのディスカッションがまとまったところで、ややこしいデータベースの面倒な作業を再開するそうな。



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