スポンサーサイト

--.--.-- (--)


上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。



クリック募金を始めました。下記サイトにて協賛企業のリンクを各社1回クリックすると、1円ずつ募金できます。
    JWordクリック募金

 |  スポンサー広告

3年目

2011.02.21 (月)



ブログが3年目にさしかかった。

次男に言ったら、「えー、もう? まだやってるのー?」と驚かれた。

ある日、ブログをやろうと思い立ち、HTMLがどうの画像がどうの、子どもたちに「これでいいと思う?」と聞いて回っていたのが、毎日は更新しないにせよ、続いているのである。私だって驚く。

これを機に、副題の「アメリカ暮らし21年」を外すことにした。

ブログを始めた一昨年に20年として、去年は21年に書き換えたのだが、どうもブログはしばらく続きそうである。このままでいくと、年数を毎年更新しなくてはならない。27年くらいならまだ可愛いかもしれないが、たとえば「アメリカ暮らし48年」というころになれば、おそらく「何を今さら」と思う。

私はお仕着せのテンプレートにほんの少し手を加えたものを使っている。

全体に関わる箇所を変更するときは、いつも一抹の不安がある。もしかしてレイアウトが全部崩れて、再起不能になるかもしれない。副題はプロフィールに移動した。もし数字が変えられなくなっても、たぶん誰も気づかない。

一番上の画像の変更もできない。何度か試みたが、だめだった。それで季節感ゼロのブログになっていて、ものぐさの証明みたいなものだが、しょうがない。

何よりも、そんな暇があったら、私は文章を書きたい。


           *


私はコメントにまず返事をしないし、相互訪問や相互クリックとやらもしない。

一方通行で、ただ書きたいことを書くだけである。ブログを通して友だちを作ろうとかコミュニティに参加しようとかいう気はない。

私にとってブログの最大の楽しみは何かと考えたら、発信する楽しみだった。

その日にふと思ったことだけでなく、何かの事件や事象について調べたことも、誰が読むという保証もないのに、情報を整理して文章を組み立て、記事にまとめるのはとても楽しい。

子どもの一言やニュースの断片がきっかけで、話が広がることもある。

私はタイプ(だけ)は早い。頭に浮かんだ文章をどんどん打っていく。

かなり長い記事を書いても、投稿する段になってボツにしたものもわりとある。特にテーマを限定していないのだから、何を書いてもいいし、せっかく書き上げたものをゴミ箱に入れるのはもったいないと思いつつ、どうにも気に入らなくなって捨てる。

すべて私が決めていいところも、ブログは自己中心的な私にピッタリである。


           *


私はブログと距離を置くようにしている。

私はブログの主というよりは、ここに来て文章を書き残し、立ち去る。そのうち、
1人2人と読みたい人が訪ねてきて読む。たまに書き置きがしてある。私は再びやってきて、それを読み、また次の記事を書く。その繰り返しである。

自分とブログを同一視しないほうがいい。ちょっと冷めた目で突き放して見るくらいがちょうどいいと思う。

自分が伝えたいことは完全には伝わらない。それによって、読み手との間にズレが生じる。ズレの方向は、プラスとマイナスの両方がある。

たとえば、私のブログの1つの記事だけを読んで、私という人間を決めつける人がいる。「いや、そうではなくて、私は実はこういう人間です。今回のエピソードではその部分が出ていないだけです。」と説明することは無駄である。

すべての記事を総合しても、私の人生のほんの一部を瞬間的に切り取ったに過ぎない。

たとえば、夫がお金や保険に関知しないという事実を書いたら、愚痴を言うな、専業主婦なんだからそれくらいやれと言われる。

うちでは、私が渡米したときからお金のこと一切をやっているのである。夫には心配で任せられない。どう考えても、夫より私に向いている。そのへんはうまいこと分業体制ができている。

「外で働いてないくせに。そんなのは仕事じゃないぞ」と言いたい人がいるだろうが、「いや、だから『分業』というのは物の例えでありまして」などと反論するのも空しい。

夫や子どもたちとの会話にしても、これは録音再生ではないし、英語の部分は私が適当に日本語に直している。

どこかで創作が入るのは致し方ない。むしろ、それだから書く甲斐があるというものだ。

事実を書いたつもりでも、私の指がタイプを始めたとたん、それは私の目が見て私の脳が認識した、限定つきの事実となる。

このブログはフィクションであり、実際に存在する人物、団体等、
実在のものとは一切関係ございません。


と表記したっていいくらいだ。実は、私は犬を飼っていて、息子だけではなくて娘もいて、夫は年下のロシア人の学者で、億万長者(または極貧生活者)で、NYでなくてNJに住んでいるかもしれない。

そう思って私の過去の記事を読んで、何の支障があろうか。


            *


世の中には言葉尻をとらえる人も多い。

いちいち釈明するのもめんどうなので、たいていは「なるほど、そう受け取られましたか」とほっておく。

たとえば、私は夫の頼みをできるだけかなえるべく生活している。お茶を入れるとか何かを買ってくるとか、本当に些細なことなのだが、恩を売っておいていつか有利に使うと書いたら、夫の稼ぎで生活しているくせに感謝が足らないと非難される。

いや、だから「恩を売る」というのは、たとえばピザのテイクアウトをどうしても取りに行きたくないときに、「悪いけど、行ってくれる?」と夫に頼む。あるいは、夫が散髪に行くときに、ついでに息子たちも連れて行ってくれと頼む。その程度のことなのだ。

夫はたいてい引き受けてくれるので、私が下手(したて)に出る必要はない。でも、ふだんから誰かの頼みをことごとく却下していたら、ちょっとしたことでも頼みにくいのが人情ではないか。

それは私が無能・無収入・無責任のパラサイト専業主婦であることとは関係ないと思うのだが、時として主婦のお気楽発言は「養ってもらっているくせに」というところに焦点が集まる。私の管理下で配当金が少ないのにと言われて、はて私がうちの資産を公開したことがあったかと思い返す。

品行がよろしくないという生活指導までされるに至っては、「良妻賢母ブログをお探しの皆さま、お出口はこちらです」と案内したくなる。

でも、ブログを書きながら、「この部分は実は単なるジョーク(皮肉、希望的観測、おふざけ、その他いろいろ)です。」とか「これは一般論であって、すべてのアメリカ人に当てはまるものではありません。」とか「この一節はニュースサイトからの引用であって、情報の信憑性は保証いたしかねます。」とか、注釈をつけていたらキリがないのだ。

ああしろ、こうしろと私に指図する人もある。

周囲になかなか関心がもてない私は、よくまあ他人のためにそんなめんどくさいことができるなあと感心する。そういうのは一種の趣味じゃないだろうか。しかも、私は返事をしないし、私の性格からして、忠告をありがたく受け入れる確率は低い。


            *


ブログをする人は自己顕示欲が強いのだそうだ。

私も過去にそういうコメントをいくつかもらった。「人付き合いが嫌いなんて言いながら、矛盾してます」と糾弾されたり、「結局、人に認めてもらいたいんでしょ」と決めつけられたりした。

中には「なぜ私はこのブログが嫌いで、自分に都合のいいことしか書かない・載せないブログ主が嫌いで、それによって自分はどれだけ傷つき、それなのにどうして読み続けるのか」ということを小論文みたいに長々と書いてきた人もいた(もちろん非公開)。

もう、そういうのはほっておく。

かなり前に、「最近の(注: その頃の)記事はストーリー性に欠けている」というコメントが来て、たまげた。

私はアメリカに住んではいるけれど、出不精で怠惰なただの専業主婦で、平々凡々な生活をしている。物語性のある出来事なんか起きない。

こんな素人の書いた無料のページに過大な期待を抱いてはいけない。

「いつも読み逃げですみません」と謝る人もいる。

食い逃げは困るが、読み逃げ(昔はこんな言い方はしなかったと思う)、おおいに結構。

私はよそのブログやサイトにコメントを残すなど、1年に2回あるかどうかである。それで悪いと思ったことはない。たいていどこでも、ほとんどの人は読んで終わりではないだろうか。全員が毎回コメントを残したら、どこも容量オーバーになってしまう。

読み逃げですみませんというのは、日本的な感覚かもしれないと思った。

まず、「読み逃げ」の語感が悪い。食べたら料金を払わねばならないが、ブログは読んだらそのまま閉じていいのである(購読料を課するブログもあるらしい。読む前に払うのだろう)。

書き逃げと言う言葉があるかどうか知らないが、明らかに敵対心あるいは挑発心を持って書き、しかも「個人的な感想であれば、どんな発言でも許されるべきである」という印籠をちらつかせるのは醜い。


            *


「読者を意識した文章が気に入らない」というコメントもあった。

他人の目に触れるのだから、走り書きをしないのは当然である。自分の頭の中にある考えをインターネットという媒体で送り出す段階で、私以外の人に読まれる可能性も考える。

そんな面倒なことを考えなくても、私はこのブログを書くことが唯一の日本語文章修行の場になっている。

日本語は私の母国語なので死ぬまで忘れないと思うが、読むだけではさびつく。一番ピッタリくる言い回しを考えたり、自信がなくなってきた熟語の意味を調べたり、ほとんどボケ防止策でもある。

そして、やっぱり書くことが好きなので、どうせならちゃんと書こうと思う。読者に気に入ってもらうためでなく、自分のために書く。

「自分は頭がよく、自分は特別だ、有能だと思っているところが気に入らない」というコメントもあった

(私は根に持つタイプなので、記憶力は悪いくせに、こういうことは案外よく覚えているものだ。いや、こういうことを忘れないから、他の重要なことが記憶できないのか)。

頭がよくて特別で有能な人間が、50歳にもなろうというときにこんな生活に甘んじているとは思えない。そもそも、いったいどうやったら私の能力をそんなに買いかぶることができるのか、不思議でしょうがない。私はいつも無知・無能をさらけ出しているような気がするのに。


            *


「ご主人やお子さんに読まれてもいいんですか」と危ぶんだ人もいた。

私は気にしない。彼らの性格からして、英語に機械翻訳したものを読むとは思えない。私がブログを続けていることすら知らない可能性が高い。

読んだところで「これはフィクションなの。あることないこと、おもしろおかしく書いてるの」と言うだけのことである。まあ、おもしろおかしく書けるほどレベルは高くない。

発信する相手は未来の私でもある。

私は自分が読みたいブログを書こうと思った。5年、10年と経って、自分が読み返せるものを書き残そうと思った。

テクノロジーが恐るべき速さで進化しているらしいので、ブログという形式もあと何年続くのかわからない。その前に私の体にガタが来てしまうかもしれないが、書きたい気持ちがあるかぎりは書くつもりでいる。

それにしても、2年もこんなことをダラダラ書き連ねた私は、相当の暇人である。

【関連記事】
自分が読みたいブログを書くく 2009.11.16
ブログでデジャ・ヴュ 2010.10.20

スポンサーサイト



クリック募金を始めました。下記サイトにて協賛企業のリンクを各社1回クリックすると、1円ずつ募金できます。
    JWordクリック募金

 |  わたし  |  コメント(14)
 | ホーム | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。