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老いる

2013.11.10 (日)


義父は1週間滞在した。

駅までお迎えに行ったときには、血色もよく、声もしっかりしていると思った。ウォーカー(歩行補助器)につかまっていて、助手席に座るにも難儀そうだったが、89歳なのだから当然だ。

家に着くと、ドライブウェイから玄関までの煉瓦の道をウォーカーで進み、玄関の4段の階段は自分で上った。

うちにはLa-Z-Boyみたいな調節できる安楽椅子はない。義父が座るのは、ソファよりは立ち上がるのが楽な、猫が傷だらけにした安物の椅子と決まっている。起きている時間の7割は、義父はそこから動かなかった。

残り3割は、台所の横の食事用テーブルの椅子である。5歩も離れていないが、最初の日はウォーカーで移動した。転ぶのが怖いのか、それほど足元が覚束ないのか、わからなかった。


        *


トイレは春先に3つのうち2つを取り替えた。ADA承認という障碍者規格の、座高の高いもので、座るのも立ち上がるのも従来の型より楽だ。

でも、義父に使ってもらう主寝室にあるバスルームのトイレは替えなかった。いずれリモデルが必要なときに一緒にやろうと思った。しかも、トイレタンクから水音がするので、元栓を止めて長いこと使わないでいた。

しかし、義父が夜中にトイレに行くときに、ゲストバスルームまで歩かせるのは危険だ。途中には1階への階段もある。

夫は次男を連れて日曜大工のお店に行き、パイプやら何やらいろいろ買い込んできた。結局、出来合いのつかまり棒もちゃんと売っていたのだが、夫は自作したかったらしい。

義父はどれも使わなかった。

2~3日して、義父がシャワーを使っていないことに気づいた。夫をまた日曜大工のお店に向かわせ、滑り止めのマットやらシャワー用の椅子を買ってこさせた。

でも、義父は1週間一度もシャワーを使わなかった。

夫は1回くらい使っただろうと言ったが、その形跡はなかった。NYCに戻る日、駅でハグしたときに体臭があった。以前は、シャワーはもちろん毎日だし、夕食の前に着替えをする人だった。

私は夫にシャワーに付き添ってあげたらと提案したが、夫と義父はそういう関係ではないので、頼まれるまでしないと言い張った。

これが私の母と私だったらどうか。

私たちはたまにメールするくらいで、べったり母娘ではないし、同年代ではごく普通の、ハグなどしない関係である。それでも、もし高齢の母が慣れないシャワーに入ると言えば、少なくとも私はシャワーのすぐ外で立ち会うだろう。本人が大丈夫と言っても、なんだかんだと言い訳をして。


       *
   

義父が来る前に何を準備したらいいかと尋ねる私に、義母が言った。

「ゴミ袋をトイレに置いてくれる? おむつを捨てるのに要るの。替えるのは自分でやれるから大丈夫よ。私は毎晩おむつを外のゴミ箱に捨ててるから、あなたもそうして。」

「黒い大きいビニール袋ですか」と私。

「ううん、スーパーのレジでくれるやつ。あれをいくつか。1日に1回替えるから。」

取り出しやすいように紙袋にレジ袋を20枚も入れて、すぐ手の届くところに置いた。おむつは本当に1日持つのだろうか。最近のおむつは吸収性がいいのか。それにしても、気持ち悪くないだろうか。本当は何回か取り替えるんじゃないだろうか。

そういえば、カリフォルニアに遊びに行ったとき、潔癖症の義母がよくこぼしていたのを思い出した。

「おむつを替えないのよ。漏れるし、臭いし。バスルームを汚すし。もうたまらないわ。」

「どうして替えないんでしょうねえ。忘れてしまうとか? 濡れているのに気が付かないとか?」くらいしか私には思いつかない。

「めんどくさいだけでしょ。それにシャワーも入らないし。あなたたちがいるから、今週はちゃんとしてるだけよ。」


         *


主寝室にはなるべく入らないようにしていたが、義父が階下にいる間にバスルームに入ってみた。

トイレの横に、おむつとみられるビニール袋が置いてあった。ちゃんと縛ってある。持ち上げてみて、重さに驚いた。私は大人のおむつなんか見たこともなかった。まして、使用済みのおむつがどんなものかもわからなかった。

義父は早くても朝10時、下手すると11時に起きてくる。それから夜までずっとリビングルームとキッチン横のテーブルにいる。

仮に、日中おむつを替えたくても、階段を上り下りするのが難儀かもしれない。私は夫におむつの替えを1階のトイレにも置いたらどうかと提案した。夫は本人に聞いてみると言ったが、結局それはうやむやになった。

朝食時に新聞を読み(私は毎朝、NYタイムズを買いに出かけた)、そのあとはずっとリビングルームの椅子に座りっぱなし。字幕つきでテレビを見るか、本を読むか。たまに夫が話し相手をするものの、これでは何のためにわざわざうちまで来たのかわからないくらいだった。

義父の楽しみは、夜遅くまでテレビを見ることだった。ニュース番組や科学番組を見て、ちゃんと電気を消してから主寝室に上がる。

滞在4日目くらいのある夜、義父はなぜか9時前に引き上げた。物音に気付いた夫が自室から出てきて「今日はテレビは見ないの?」と聞いたが、そそくさと主寝室に入ってしまった。やり取りを耳にした私も出てきて、夫と顔を見合わせた。

「大きいほうのコントロールができなくなったんじゃないかな。なんか臭ったよ」と夫。

「そんな臭いしなかったわよ」と言いながら、それがもし本当だったら、老人ホームに行ってもらうと義母が言っていたラインを超えたことになる。でも、便の臭いは強烈だ。すぐわかる。夫の思い込みだ。


         *


猫の晩御飯をあげようとキッチンに行ったら、床が濡れていた。

誰かがコップの水をこぼしたのかなと思った。あるいは、猫が水の容器を蹴とばしたか(よくやってくれる)。パーパータオルを取ろうと数歩進むと、水が点々としている。こんな濡れ方は見たことがない。

ハッと思って、義父が座る椅子を見た。

座椅子のクッションは薄いグレー。それがぐっしょり濡れていた。周りの床も濡れている。慌てて夫を呼んだ。

「グランパはこれで早々に引き揚げたのよ。一言言ってくれたらよかったのに。」

「言えなかったんだろう。でも、言ってくれたらよかった。単なるアクシデントなんだから。」

そして、クッションを持ち上げると、椅子の本体まで染み込んでいた。とにかく、床を掃除しなくてはいけない。消毒も必要だ。私一人で片付けたほうが効率がいい。夫はありがとうと言った。

夫にクッションを地下室のシンクへ持って行かせた。あとで、椅子本体も地下室へ動かした。

ちょうど同じ型の椅子がもう一つあった。それを移動させて、いつもの場所に置いた。今度はタオルでも置くべきか。でも、そうしたら義父が気にするかもしれない。私はもともとこの椅子を捨てようと思っていたくらいだ。汚されてもどうってことはない。

仕事で疲れていたうえ、予定外の床掃除その他でさらに疲労したのに、なかなか寝つけなかった。

義父には相当ショックだっただろう。カリフォルニアの自宅ではやったことがあるだろうが、まさかよその家で、しかも椅子のクッションは洗えるが、相当汚れてしまった。

階段のカーペットはどうなのか。少しは自分で拭いたのだろうか。どうやってそれ以上汚さすに階段を上がったのか。

なぜ一言、自分の息子に言わないで、知らんぷりをしたのか。すぐに発見されてしまうのに。

おむつはもう何年も前からしている。それは諦めがついただろう。大きいほうのコントロールはまだできる。今回だって、せめて1日2回おむつを取り替えていれば防げたと思う。それができない、あるいはしたくないという思考なのか。おむつ代がもったいないからだろうか。


          *


翌朝、どんな顔をして義父に挨拶したらいいのかと悩んだが、義父はいつもより少し早く、台所へやってきた。

私はいつもと同じように、「おはようございます。新聞は買ってありますよ。またオムレツを作りましょうか」と尋ねた。義父もいつもと同じだった。

そして、粗相の話はしないまま、お茶を入れ、朝食の支度をしてから、私は2階で仕事を始めた。これでいい。お互い知らんぷりでいいのだ。

昼食に下りていくと、義父が言った。

「息子がなにかの薬が足らないと言っていたようだが、あなたにドラッグストアに行くように頼んだかね。」

「いえ、聞いてませんけど。それに彼の薬はオンラインで注文して、郵送してもらってるんです。だから、この辺のお店では扱ってないんですよ」とそこまで言って、もしかして義父は私にドラッグストアに行ってほしいのかもしれないと思った。

「なにかお薬が必要なら、近くのドラッグストアに行ってきましょうか。車で10分だし、すぐですよ」と私。

「じゃあ、タイレノールを頼む。Slow releaseというのがあるから。なるべく安いのでいいよ。」

痛み止めか。痛いのを我慢していたのだろうか。これも遠慮しないで言ってくれたら、夜でも買い物に行ったのに。私はすぐに出かけた。


       *


「いくらだったかね」と義父。

「ストアブランドだし、私はメンバーズカードで割引してもらえたし、5ドルもしませんよ。いいですよ」と断った。義母に頼まれて、到着早々に義父のズボンをドライクリーニングに持って行った。そちらは12ドルくらいだったか。そのことは忘れているのだろう。どっちみち、請求するつもりはなかった。

朝、階下に来てから、夜までは2階に行かない義父が、階段を上がっていく気配がした。

不思議に思っていると、夕食の支度をしている私のところにやってきて、20ドル札を1枚差し出した。それを持ちに行くために、わざわざ階段を上り下りしたのか。

「タイレノールの代金。」

「いえ、いいです。ほんとに」と続ける私に、義父が真面目な顔をして言った。

「それと、掃除をしてくれたことに」

義父は自分の粗相を忘れたり、無視したりしていたのではない。ずっと気に病んでいたのだ。私は涙が出そうになった。でも、泣きたいのは祖父のほうだろうと堪えた。

「そんな!ぜんぜん、なんでもなかったんですよ。気にしないでください」と断ったが、義父は20ドル札を引っ込めない。そうすることで義父の気が晴れるならと、私は受け取った。義父はサンキューというと、ゆっくりとリビングルームへ歩き始めた。

おそらく、痛み止めは口実だ。私にお金を渡すための取っ掛かりがほしかったのだろう。

食事の支度の目途がついてから、夫の部屋に行き、20ドルを見せた。

「これ、お義父さんから。掃除のお礼だって。私は要らないって言ったのよ。」

「こんなことしなくたって。ただのアクシデントなのに」と夫も言葉を失った。

「でもね、これで本人の気が済むなら、受け取ったほうがいいと思う。とりあえず、あなたに渡すわ。帰りの電車代を払ってあげたら?」

「切符は往復で買ってある。でも、そうだな。突き返すのもよくないか。ちょっと考えるよ」と夫は自分の財布に入れた。

その後、夫を通じて何度か洗濯を申し出たが、義父は断り続けた。汚した服はシンクで洗ったのか、ビニールにでもしまってホテルに持ち帰ったのか、わからない。

この件は、義母には伝えなかった。


        *


ふだん老人看護をしている人には見慣れた光景かもしれない。

夫も私も戸惑ってばかりだった。そして、老いるとはこういうことかと考えさせられた。

単に体の自由が利かなくなるのではない。自分でおむつが取り替えられても、それを捨てに行くことができない。もし粗相をしたら、誰かに片付けてもらわねばならない。粗相をしないように、何度かおむつを替えようとは思いつかない(あるいは、それだけの体力気力がない)。

これが小さいほうだからまだいい。大きいほうのコントロールができなくなったら、さらに深刻になる。

耳が聞こえなくなり、補聴器もうまく働かない(日本製ならもっといいものがあるのだろうか)。本人も周りも不便だが、排泄の問題に比べればどうということはないと思う。

生まれたばかりの赤ん坊が自分で何もできないように、老いるというのはそれを逆に辿っていくことだ。

ただし、赤ん坊には世話になっている負い目はない。それに、おむつも手助けもだんだん要らなくなる。成長する楽しみがある。老人は、ボケている人以外は、自分でできなくなったという意識があるはずで、しかもだんだんに頼ることが増えていく。

人間の尊厳の一つは、自分で排泄の始末ができるかどうかだ。

腰が痛いの、トイレが近いのと文句を言いながら、ちゃんと自分でトイレに行けることに感謝する日々である。


       *


老人介護の本のレビューに、こんな一説があった。

「奥野修司氏の本に、"人間には、仕事を辞める「社会死」、自分で何も出来なくなる「生活死」、そして肉体が滅ぶ「生物死」という3回の死がある"という記載があります。」

私は長男を産んでから仕事を辞め、3か月前からやっとフルタイムに戻ったので、社会的には19年も死んでいたことになる(お小遣い稼ぎのパートは勘定に入れない)。母親というのは仕事ではないし、専業主婦と威張れるほど家事能力はない。

生活死と生物死が同時に来るのがいい。自分で何もできなくなったら、それで人生終わりでいい。

私も夫も延命処置不要である旨、遺言にしてある。

私の理想は、雪の降る寒い日に裏の森で凍え死ぬことである。問題は、そうしたいと思ったとき、はたして裏庭まで歩いて行けるほど体の自由が利くかどうかである。


<今日の英語>

I'll leave soon. Please don't go to any trouble for me.
すぐにおいとまします。どうぞお構いなく


人付き合いの悪い私は使う機会はめったになさそうだが、コピーしておいたフレーズ。もてなす側の決まり文句は、It's no trouble at all.(ぜんぜん面倒なことではない)。
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女3人のチーム

2013.11.04 (月)


10月は必死で仕事をした。

義父が滞在中も忙しかったが、その後は仕事量が増えて、レポートすべてに提出期限が設けられたこともあり、勤務時間を記録するのを忘れるほどとにかく働いた。

先週の金曜日、一番大きくて後回しにされていたレポート(私はエレファントというあだ名を付けた)が完成した。疲れが出て、昨日は寝たり起きたりしていた。

早朝、目が覚めた。ラジオをつけて、今日から冬時間に戻ったことを知った。アメリカ生活で切り替えに気が回らなかったのはこれが初めてである。それほど仕事に集中していたのだろう。

共同作業だったエレファント以外は、すべて個人でデータをまとめてレポートも一人で書いた。

相変わらず、QAは女3人だけ。新しいプロジェクトなので、上司のH氏も私たちも手探り状態が続いた。

1か月目の9月とは違って、ちょっとしたトラブルも起きた。私がエクセルのデータに手を加えたことを2人に事後報告したのが発端だった。先に確認しなかったのと私の説明が下手なせいで、誤解を招いてしまった。

その後、クリスとジャンは明らかに私を警戒し始めた。

私がなにかトラブルを起こすのではないか、データをめちゃくちゃにするのではないかと疑ったらしい。週明けに受信箱を開くと、「私たちはxとyを担当するから、あなたはzをやって。一番データのサイズが小さいから」と日曜日のうちにクリスからメールが入っていた。

私はうまくやりたかったし、誤解は私にも責任はあると思い、彼らの言う通りにした。

若いころだったら、仲間外れにされたとか、さっそく失敗してしまったとか、思い悩んだところだ。年を取るのはありがたい。ちょっとカチンときたが、自分の目標はこの仕事をきっちりやることだと考えて、彼女たちのやり方の是非は問わないことにしたのである。


             *


その時点では、まだそれぞれ個人レポート1つしかできていなかった。急ぎの依頼があったので、エレファントは中断し、3人が個人レポートに取り掛かるという寸法だった。

私はまだ自分が何をしているのか確信が持てなかったが、H氏がくれたメールや説明文書を何度も読んでは考えた。

最初はワードで作っていたレポートも、H氏の指示でパワーポイント(PPT)に変わった。

そういえば面接前にもらった仕事内容のメモにも、PPTと書いてあったか。でも、面接ではエクセルやPPTのレベルについては一切聞かれなかった。私は昔のバージョンで遊びで猫のスライドを作ったのが唯一の経験である。もともとアメリカ人二人に比べて私は仕事が遅いのに、またしても遅くなる。

最近のソフトウェアは、昔と比べて性能もいいし、格段に使いやすい。時間はかかったものの、だんだん慣れた。週40時間契約だが、そんなことよりも期限までに完成させることのほうが大事だった。

まずジャンが「レポートができました」とH氏にメールした。クリスと私はCcに入っている。

全員がアクセスできるので、私も参考までに見て驚いた。PPTなのに、スライドにぎっしり文章が並んでいる。それに、画面のキャプチャも文字が小さすぎてまったく見えない。数字が一致しない。なによりも、レポートに内容がない。

こんなものでいいんだろうか。

しばらくすると、H氏から厳しい返事があった。これでは使い物にならない。大幅な改良が必要だ。箇条書きでいくつも問題点が指摘してある。

その次に、クリスのレポートができた。彼女のPPTも、ジャンほど文字がぎっしりといった代物ではないにしろ、何が言いたいのかわからない。

H氏は、全体としてはまあいいが、こことここをやり直すようにと命じた。


               *


私はその間も無我夢中で自分のレポートに取り組んだ。

だいたいできたところで、突然H氏からIMで呼び出された。きっと私のレポートがなかなかできないので、心配したのだろう。

「レポートはどんな具合ですか。質問はありますか」

私はついさっきドラフトができたことを報告した。そして、気になっていた点を2つ相談すべきかどうか迷った。うまく質問できる自信はなかった。

さっそく私のPPTにアクセスしたH氏は、「ここは番号リストにする必要はない。ここにはハイパーリンクをつけて」と、IMで指示をくれた。そして、思いがけないメッセージ。

”Very good. Keep up the good work”
 
先の二人があれだけダメ出しをくらったので、覚悟していた私は拍子抜けした。それに勇気づけられて、データの疑問を相談しようと決めた。

ある数値がかなり大きく離れていたことを話すと、H氏は非常に興味を示した。そして、自分でもデータにアクセスしたらしく、これは一番重要な発見だ、よくやったと言った。そして、このデータをどう処理してどう分析するかを丁寧に教えてくれた。

それからがまた大変で、私は食事もそこそこに取り組んだ。工夫して表を作った。


           *


H氏はちょくちょく私たちの未完成レポートに目を通していたらしく、翌日、クリスとジャンに「コメットがとてもいい表を作ったから、参考にするように」とメールで2回も念を押した。

エレファントの誤解以来、メールでもIMでも音沙汰のなかったのに、ジャンからひっきりなしにメッセージが来るようになった。

あれはどうやったの、これはどうやったの。私はできるだけ答えたが、未完成だし、なにしろ提出期限が迫っているし、H氏は確かに私の表が気に入ったらしいが、”Keep up the good work" というのは決まり文句なので、レポート全体としてどれほどの出来なのか、私にはわからなかった。

そのうちジャンは「私にはメールでみんなに見えるように返事をしたのに、あなたにはIMなんてちょっと変じゃない? 私はずっとIMを開けてたのに」と言い始めた。

H氏はそれまでにも私に何度かIMを送ってきた。なにしろ私が最初のQAメンバーだし、最初の2週間は本当に私とH氏だけであれこれ試行錯誤していたのだ。そのせいもあって、ほかの二人よりも私とH氏は近しいところがある。

しかし、ジャンに不機嫌になってもらっては困る。とくに、H氏は台湾人で私は日本人。アジア人同士だから贔屓されているなどと思われては迷惑だ。

なんとかIMを打ち切って、私は自分のレポート完成を急いだ。


           *


できたことを知らせると、H氏からメールで私だけに返事が来た。

「とてもよくできている。あなたにはグループのリーダーになって、ほかの二人にQAレポートのなんたるかを教えてやってほしいと思う」

私は自分の努力が報われてうれしかった半面、これはやりにくいなと思った。女性3人という、ただでさえ微妙な集団だ。しかも、エレファントの誤解から、彼らは私が仕事ができないと決めただろうし、そうでなくても英語の問題から仕事の遅さや不自然な言い回しなどでダメな同僚だと思っただろう。それが、一転してH氏からお褒めの言葉である。

ジャンとは対照的に、H氏が私の表に言及したあともクリスは何の連絡もしてこなかった。彼女は大学院まで行った。仕事の遅い、英語も完璧ではない私がたった1枚の表とはいえ、ほめられたのはおもしろくなかろう。彼女は次の日も沈黙だった。それまではよくやり取りがあったのに。

H氏が全員でなく、私だけにメールをくれたことがありがたかった。私はクリスとジャンを敵に回したくなかった。


           *


次の週明け、2人はまた週末に話し合ったとみえて、その週の仕事を先に選んでいた。データサイズが小さく、H氏から特別な指示のない仕事を取ってしまった。残っている仕事は一つだけ。なんだかややこしそうで、データもほかに比べて大きかったが、それしかないのだからしょうがない。

私はまた「わかりました。先週は私に一番小さいデータのをくれたし、公平に行うためにも私はこれを受け持ちます」と二人に返信した。

足手まといになりそうな私に簡単な仕事をさせようとした先週とは裏腹に、今度は一番大きくてややこしそうな仕事を回してきた。やられた。

私がそれを担当すること自体はいい。早い者勝ちみたいなやり方がいやだった。

夫には仕事の内容は話さないことにしているが、この件を伝えると、

「そりゃ、そうするさ。これから先、難しい仕事はきみの担当ってことにさせられるよ、きっと」とあっさり言った。

日本でもアメリカでも働いたが、こういうグループでの仕事分担はしたことがなかった。しょうがない、これも勉強と思ってやるしかない。英語では彼女たちにかなわないし、スピードもどれくらい追いつけるかわからない。彼女たちの助けが必要なときはまだある。

今は、ともかく「うまくやる」ことが一番大事だと自分に言い聞かせた。


<今日の英語>

It took years off my life.
寿命が何年も縮んだよ。


ある俳優が「舞台は好きだよ。もっとも、あのトラブル続きですぐに打ち切られた舞台のあとでは、以前ほど好きじゃなくなったけど」と言った。対談相手が「そう? あの芝居はなかなかよかったと思ったけど」と応じたが、「あれはひどい経験だった。命が削られるようだった」と痛手の深さを語った。



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義父の食事

2013.10.14 (月)


義父がこちらに泊まりに来る前々日、リンから電話がかかってきた。

ニューヨークのホテルに無事に到着したこと。リンの娘ウェンディも同行していること。そして、義父の送り迎えをどうするかの相談。

私はフルタイムで働き始めていたし、夫はG氏のプロジェクトを手伝ってはいたが、私たちはほとんどずっと自宅にいた。次男が退院して、遠くまで出かける必要もなくなっていた。

いつでもいいとリンには言ったが、日曜日に決まってほっとした。片付けの時間を確保するためには、遅いほうがありがたい。しかし、その後、話が二転三転して、土曜日になった。

私は仕事の合間にちょくちょく掃除をした。それでも、土曜日は一日中片付けに追われ、夫が義父をつれて帰宅したころにはクタクタだった。

老人は転びやすいからと、床に敷いてあるラグはほとんどすべて地下室へ持って行った。

私がふだん使う主寝室を明け渡すことにしたので、ぶつかりそうな家具や箱なども動かす。夫が捨てたがらない古くて重くて大きいテレビは、カートごと部屋の隅に転がす。配線コードも引っかかりそうなものはどかさねばならない。大仕事だったが、もともと無駄に広い主寝室がさらに大きく見えるほどスッキリした(まだその状態を保っている。それだけに、テレビが目障りでしょうがない)。


         *


好き嫌いの激しい私は、もてなしが苦手である。自分が料理を供するのはもちろん、よそのお宅でごちそうになるのもストレスがたまる。

結婚当初は、義父母が来るたびにパニック状態に陥った。年を経て、どうにかごまかす術も覚えたが、ほかの人のために食事の支度をするのは極力避けたい。

義父は好き嫌いなく、何でも食べる。大恐慌時代を経験しているだけに、出されたものは残さない。もともとが食いしん坊である。これが最後の滞在になる可能性が高いし、何もない田舎だから、せめておいしいものでも作ってあげようと思った。

「グランパはこの頃どんなものを食べてますか。ずいぶん前にコーヒーをやめてお茶にしたことは知っていますけど、お茶はどんなお茶がいいでしょうか」と私はリンに聞いた。

「お茶はあなたが飲むのといっしょでいいわ。」

「じゃあ、ダージリンとかイングリッシュ・ブレックファストとか普通の紅茶ですけど。朝はシリアル、それともパンのほうがいいですか。」 義父はなんでも食べるが、こだわりもある。

「シリアルは食べないわ。パンも。」

「えっ、どっちもですか。じゃあ、ヨーグルトは?」

「ヨーグルトは食べるわ。フルーツも。卵もOK。でも、パンはだめ。シリアルもだめ。それから、ポテトもお米もパスタもだめ。チーズはいいけど。」

「そんな!私はお米なしじゃ生きていけません。」

「あなたはそうよね。でも、太るのよ。パンもパスタもポテトも。まあ、あなたが作るなら、グランパも食べてもいいわ。」


        *


義父母に会ったのは2年ほど前。そのときには普通に食べていた。

それまでにも、朝は豆を挽くところから始めるほどコーヒーにこだわっていたのが、突如として朝は緑茶(砂糖入り)になったことがあった。流行りものが好きで外見にもこだわる義母は、ピラテスやらバランスボールやらにも手を染めたりして、あの食べ物は太るのどうのとよく話題にした。

いつから炭水化物を抜かすようになったのか。1年に数えるほどしか電話しないが、体重が減ったという話は聞いたことがあった。私は人のそういう話に興味がないので、すぐに忘れてしまう。

「ちょっと!リンもグランパも、ノー・ブレッド、ノー・シリアルですって。パスタもお米もだめで、お芋もダメって言うのよ、リンが。いったい何を作ればいいのよ?」と私は夫に訴えた。

「そういえば、そんなこと言ってたなあ。いつもみたいに作ればいいじゃないか。そんなものに、付き合えんよ」といい加減な夫。

それでダイエットできるなら、夫こそ食事制限すべきだと思うが、まるっきりやる気がない。セロリをかじって相当痩せたのに、いつの間にか元通りになっている。ヨーヨー・ダイエットの典型である。

義父は心臓も患ったし、足腰にも故障を抱えている。少しでも体重を減らしたほうがいいのは確かだ。義父は、夫のお腹周りなど問題にならないほど、太っていた時期がある。


         *


確かに義父はずいぶん痩せて見えた。全体に小さくなったのだが、それでもお腹や腰の脂肪は落とせないようだった。

結局、朝はノン・ファットのプレーンヨーグルトに、あるだけの果物を小さめに切って出した。紅茶とオムレツとナッツ。ワンパターンの朝食である。しかも、朝が遅いので、ほとんどブランチで朝兼昼だった。

小麦粉がダメなら、クッキーもケーキもパイもなし。とにかくフルーツとサラダしか出せない。

夕食は、ビーフシチュー(シチューの中にも付け合せにもじゃがいもはなし)やサーモンのオーブン焼きはよかったが、そのあとはラザーニャやヤムなど炭水化物を出さざるを得なかった。なるべく野菜を増やしてみた。

慣れない仕事で疲れ、パートタイムと違って時間に余裕がなかった私は、「ラザーニャでいいでしょうか」と義父にお伺いを立てた。義父はいつでも「もちろん、なんでもいいよ」と答えた。一度だけ、イタリアン・レストランからテイクアウトしたが、仔牛肉とピーマンのソテーとサラダだけを食べた。

でも、テーブルに出ていれば、義父はヤムでもパスタでも食べた。とくにヤムは自分でお代わりをよそった。南部の生まれだからか、そういうものが好きなのだ。

確かに体重を減らせたのはよかっただろう。でも、義父は89歳である。私がその年なら、好きなものを好きに食べたい。お米は太るからいけませんなんて言われたら、生きる楽しみがなくなる。

義父の滞在の終わりに、私は思い立って日本風のスポンジケーキを焼いた。前にカリフォルニアのお宅で焼き、義父はアイスクリームと一緒に食べて、とてもおいしいと言った。うちにはアイスクリームはなかったが、「リンには言わないでくださいね。私が食べたくて焼いたケーキが、たまたまテーブルにのっているだけなんですから」と一切れを出した。私の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、義父はニコッとした。


         *


実際、義父母がこのダイエットをどこまできっちりやっているのかわからない。

父親をマンハッタンまで送り届けた夫は、リンや姪っ子、ボストンから合流した長男と一緒に、ビストロなんとかという高級そうなフレンチレストランで昼食をともにした。まさかそんなところまで行って、パンも取らず、お芋の付け合せにも手を付けず、だったのだろうか。夫はそこまで観察していなかったようだ。

ここ数年、義父は外出が極端に減ったらしい。買い出しも料理もすべてリンがやっていた。歩くのが困難なので、スーパーの中も見て回れない(車椅子はあるが、リンの負担が増える)。昔は、自分で朝から魚屋まで出かけて、鮮魚を選び、自分でさばいたほどの食いしん坊だった。

義父自身も体重を減らしたかったのかもしれない。確かに、その必要はあった。足腰や内臓への負担も軽くなっただろう。

しかし、と私は再び自分に照らし合わせる。

結婚当初、鉛筆のようにガリガリだった私には戻れないし、戻りたくもない。仕事のせいで少し痩せたが、すぐに元に戻った。日本では決して痩せているとは思われないだろうし、年齢相応に足腰に脂肪がのっている。あと5キロ落としたい。

炭水化物をやめたら5キロくらい減らせるかもしれない。しかし、お米やうどんやお菓子を諦める気はさらさらない。意志薄弱なので、どうあがいても無理だ。

それに、もうあと何回、おいしいお米が食べられるかどうかわからない。白米も炊き込みご飯もおにぎりもリゾットもチャーハンも食べたい。それで体重が1キロ増えたり、寿命が3年縮んだりしてもかまわない。ご飯を我慢してまで長生きするほど、人生に価値があるとは思えない。

それでも、毎日体重計に乗っては200グラム程度の増減に一喜一憂している。不惑をクリアできないまま、五十にして天命を知るどころではない。

不惑も知命も、孔子がその年でそうだったというだけで、凡人のための到達チャートではないということがよくわかる。


<今日の英語>

I am a rising sophomore at L University where I am studying art.
L大学でアートを勉強している、今度ソフォモア(2年生)に上がる者です。


この新学期が始まる前、夏休みのある日、大学の事務局に電話した長男が名乗ったときの一言。初めて聞いた表現で、なぜか印象に残っている。



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新しい仕事 1か月目

2013.10.07 (月)


QAに昇格が決まってからも、一筋縄では行かなかった。

これまでの単純作業とは違って、IT企業の内部システムにアクセスするためのセキュリティ・クリアランスやパソコンの設定に非常に長い時間がかかった。

契約社員ではあるが、スマートカードの社員証をもらい、自宅で仕事できるようにリモート・アクセスだのヴァーチャルなんとかだの次から次へとクリアしていった。

ご多分にもれず、このIT企業もヘルプデスクはインドに外注している。バンガローアあたりにコールセンターがあるのだろう。電話に出る人は、ほぼ全員がインドなまりの英語を話す。聞き取りにくいが、私も長いアメリカ生活で多少のアクセントには慣れた。第一、お互いさまである。

それよりも、電話の回線が悪いのか、エコーがあったり、音量が小さかったり、そのほうが問題だった。

安く上げるためにアウトソースする会社は「アメリカ人から仕事を奪う」と悪く言われる。資本主義だからしょうがないと私は思っていた。それに、たまにクレジットカードの会社に電話するくらいしか、私はアウトソーシングには縁がなかった。

結局、2週間以上もインド人のヘルプデスクと何度もやり取りをした。私は彼らの知識と忍耐に非常に感銘を受けた。よく訓練されているからか、もともとITの素養のある人たちだからか。

ヘルプデスクに連絡するたびに記録が作られる。電話が終わると、社内アンケートがもれなくメールで届く。問題は解決できたか、サポートスタッフの対応はどうだったかなど、5つ星で評価せよという。これでは彼らも手が抜けない(もっともアンケートは必須ではない。ちなみに、夫はそういう社内アンケートはすべて無視したそうだ)。

私は律儀に全部のアンケートに答え、ほとんど最高点を付けた。そして、これだけ優秀な人たちの賃金はいくらだろうと考えた。


       *


どうにかパソコンやセキュリティの設定が終わったが、QAの仕事をどうやったらいいのかがわからなかった。

しかも、私と同じように、あと二人が単純作業のパートからフルタイムのQAに移ると聞いていたのに、いつまでたっても私一人だった。

上司がいい人だったから、乗り切れたようなものだ。

彼は面接官のうちの一人で、私の初歩的な質問にも丁寧に答えてくれた。何かしようとすると、アクセスできない。そのたびに上司に伝えると、関連部署に連絡して、私をリストに追加してくれた。

今思うと、私の最初のリポートはまったく使い物にならなかった。それでも、まず誉めて、ここはこうしたらどうかとアイディアをくれた。

しかし、自分が何をしているのかよくわからないままだったので、だんだん行き詰った。何度も書き直し、しまいには上司が重要な部分を書くはめになった。そして、もっと具体的な指示が出た。そのころになって、ようやく私は自分の仕事がなにかなんとなくわかってきた。

そうこうするうちに、ついに二人目、クリスがやってきた。

ネットでのやり取りなので、顔もわからない。同じ会社に契約社員として働いたが、全員が自宅勤務だし、ミーティングもなにもなかったので、まったく接点はなかった。

台湾出身の上司、日本人の私というメンバーのなかで、アメリカ人のクリスはただ一人英語を母国語とする人だった。

数日後、三人目、ジャニスが加わった。彼女もアメリカ人。

彼女はパソコンやネットワークの設定で非常に苦労していた(今でも未解決の問題がある。IT企業がこれでいいのか)。あれだけ有能なヘルプデスクでもヘルプできないのは、なにがいけなかったのか。彼女がやっとQAレポートに取り掛かれたのは、ここ1週間ほどのことだ。


        *


契約社員の元締めであるA社のマネージャーから、QA3名とミーティングしたいとの連絡があった。

彼女だけが西海岸で、QAは全員が東海岸。ネット・ミーティングは夜7時から。

そのとき初めて、全員の声を聞いた。マネージャーからは基本的な情報しかなく、顔合わせ(誰も顔が見えないが)程度の話だった。ともかく、我々三名は大手IT企業の社員でなく、あくまでもA社が雇用する契約社員であると強調していた。

クリスもジャニスも5歳くらいの子供が家にいる若い母親たちで、クリスは下の子がキンダーガーテンに上がるまではパートのままだという。緊張のせいか、彼女たちは静かだった。

西海岸では夕方4時だったが、マネージャーは自宅勤務だったらしく、電話口の向こうから小さい子の騒ぐ声が最初から何度も聞こえた。ミーティング中の母親(マネージャー)のところに来てはあれこれ話しかけるので、「もうすぐ終わるから」とこれまた何度も言い聞かせていた。さすがに、QAたちは小さい子供は誰かに見ていてもらったらしい。ほんの45分のミーティングだったが、まともに話ができた気がしない。

マネージャーには事情があったのだろうが、ミーティングは契約社員(部下)相手だからまあいいわと軽く見ていたと思われる。

長男出産直前に仕事を辞めてからずっと専業主婦だった私には、小さい子を抱えて働く大変さは想像するしかない。

それにしても、クリスたちにも小さい子が家にいるとわかったのは、マネージャーの話のあとで自己紹介が始まってからだった。上司とのミーティングに臨むには当然だろうが、「家で仕事するっていうのは、こういう危険があるのよねえ。30分くらい静かにしてくれると思ったんだけど」というマネージャーの言い訳と対照的だった。


         *


実際、いっしょに仕事を始めてみると、クリスもジャンもよく働いた。アメリカ人だし、小さい子もいるし、9時5時ピッタシかという私の偏見を早々に打ち砕いた。

メールやチャットでのやり取りでも、反応は早い。お互いのレポートを見直すので、私の英語を遠慮がちに直してくれる。私は最初から「英語は母国語ではないので、おかしなところがあれば率直に指摘してください」と頼んでおいた。

ジャンは「そんなこと、言われるまで気づかなかった」とお世辞を言ったが、どれだけ英語が上達しても、ネイティブ・スピーカーのようには書けない。メールやレポートならまだしも、IMになると会話のようなもので、テンポは早いし、言い回しの豊富さが違う。

しかし、英語の添削は彼女たちの仕事ではない。彼女たちの負担にならないように、私は何度も推敲してからレビューに回した。給料をもらいつつ、英語の勉強もさせてもらっているようなものだ。

10年も前に、補習校で会ったあるアメリカ人のお父さんを思い出した。大人になってから習ったというのに、日本語がすばらしく上手な人だった。

語学はある程度のレベルに達すると、なかなかそれ以上は上に行けないと自覚していた私は、どうやったら日本語をそこまで高いレベルに持っていけたのか、私は何をすれば英語がもっと上手になると思うかと尋ねた。

「アメリカの会社で働きなさい」と彼は言った。


        *


クリスのほうがジャンより学歴が高いのはすぐにわかった。

ジャンは文法をよく間違える。特に、コンマの使い方がわかっていない。英語を学問として習った私は気になるが、アメリカ人としてはおそらく平均的なレベルである。それ以上に、QAレポートの中身や、データをまとめる際など、こういうところで教育の差が出るのかと思った。

ちょっとしたやり取りから、クリスは大学院でなにかの研究をしていたことがわかった。どうりで、レポートも書き馴れている風で、簡潔にまとめたい私とちがって、詳細を入れたがる。第一、最初は悪戦苦闘していた私と対照的に、QAレポートのなんたるかをすぐに理解したようだった。

ジャンは契約社員になる前は資格の必要な仕事をしていたが、高卒であれば受験資格があるものだ。朝5時起きだったと言い、私などお金をいくら積まれてもできない、肉体的にも精神的にも大変な、人の命に係わる仕事である。そういえば、彼女は面倒見のよさそうな人だ。

二人ともあんな単純作業を2年もしていたと知って驚いた。私はたった1年で辞めたくなるほどだったのに、根性がある。

就学前の子がいて、家でできる仕事としては理想的かもしれない。それに、低賃金とはいえ、州の最低賃金よりははるかにいい。それにしても、学歴は35年前の日本の女子大卒、18年も専業主婦だった私がやっていた単純作業である。

大学院まで出た人があんな仕事とは本当にもったいない。QAでももったいないくらいだ。


        *


私の最初のレポートは、締め切りを2度も伸ばしてもらい、水曜日にやっと完成した。

よくわかっていないまま始めた弊害がどうしても見逃せず、最後の3日間でデータの見直しからすべてやり直した。睡眠を削って、食事もまともに取らずに取り組んだ(おかげで、目標体重まであと200グラムとなった)。クリスとジャンが何度も見直してくれたのは、本当にありがたかった。

蓄積した疲労と、完成した時の安堵からか、しばらく虚脱状態に陥ってしまった。

エンジニアたちの反応はまだわからない。私のレポートの出来は怪しいが、その中で一つのケースだけは自信がある。エンジニアにとって価値のある分析ができたと思う。それ以外は、ほとんどこじつけだと一蹴されるかもしれない。

二つ目のレポートは、データが大きいので3人で共同作業をすることになった。まだデータの分析をしている最中だが、やっと自分が何をしているのかわかってきた。

すでにいろいろ失敗もしたし、いつお払い箱になるかわからない。今の目標はプロジェクトの終わりまで首にならないことである。


          *

昨日、土曜日の夕方4時ごろちょっと昼寝をしようとしたら、目覚めたのは翌朝の4時だった。      

やっとブログに取り組む気力と体力が戻ってきた。

最後の更新は3週間前。何を書いたのかすっかり忘れていて、まず自分の書いた記事を読むことから始めた。

長男の去年のクラスメートの話とか、デイヴィッド・ギャレットのこととか(ここ1か月は音楽を聴く余裕もなかった)、長男の大学生活2年目の様子とか、気になるビデオとか、忘れないうちに書いておきたいことがいろいろある。しかし、いつ書けるかわからない。

気がつけば、すでに10月になっていて、窓から見える木々はすっかり紅葉している。


<今日の英語>

It was something along the lines of, "I've never tried this on that low of an OS".
「そんなレベルの低いOSにこのプログラムを走らせたことは一度もない」みたいな言い方だった。


クリスが彼女の使っていたOSについてIT大企業の正社員と話したときのこと。「契約社員が自腹で買った家庭用パソコンに何を期待してんのよ?」と憤っていた。一字一句は覚えていないが、だいたいこういう意味のことをこんな風に言ったという表現。



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19年ぶりのフルタイム

2013.09.16 (月)


長男が生まれてから、私はずっと専業主婦だった。

長男がハイスクールに入ったころから、ちょくちょくパート仕事をした。出不精な私にはぴったりの、在宅でコンピュータ相手の単純作業である。

4か月で「プロジェクトは終わりです。ご苦労さま」と切られた後は、もっと低賃金で時間ばかりかかるクラウド・ソーシングをしてみた。ノルマもないし、好きな時にタスクを選べばいいのだが、小学生の小遣いにもならない。

しかし、ほかに当てはないので、英語の勉強と思って続けていた。


      *


1年ちょっと前のある日、昔レジュメを送った会社からメールが来た。

さるIT大企業から仕事を請け負っている、いわば下請け企業である。いくつかポジションがあるので、興味があれば再度レジュメを送られたしとのことだった。

簡単なテストに合格し、1週間のトレーニングの後で、再びテストがあって採用された。

これも安い時間給のパートで、週にx時間以上は働くべからずという上限もあった。福利厚生は一切なし。仕事がない日はもちろん収入なし。毎週成績が出て、数字が悪ければまたテストを受けねばならない。私は2回は再テストを命じられた。

夫と子供たちには、「今週こそ、首だわ。明日で終わりかも」などとしょっちゅう宣言していた。

単純作業であることには変わりなく、1年も続けてほとほといやになる日もあった。G氏のプロジェクトが軌道に乗って、いくらかでもうちに分け前が入るようになったら辞めるつもりだった。

しかし、スタートアップはいっこうに離陸しない。それどころか、私の微々たる収入で支えている状況だった。

おかしなことに、「もう首でもいい。首にしてください」と投げやりになると、リラックスしてか成績が上がった。1年近く続けて、多少は仕事がわかってきたのかもしれない。それでも、成績は安定せず、また再テストの通知が来たらもう辞めようと思っていた。それほど、飽き飽きしていたのである。


        *


7月末日。

「成績優秀につき、新たに設けられるQuality Analystへの応募資格を与えます」とマネージャーからメールが来た。フルタイムで、今ほどの単純作業ではないらしい。コンピュータ画面だけを相手にしていた従来の仕事とは違って、IT企業のエンジニアと直接関わる立場だが、契約会社からの出向なので、福利厚生はなし。

そういえば、このところの成績はわりと安定していたなと気がついたが、特に優秀だとも思わなかった。もしQAのテストに受からなくても、今の仕事は続けていいと書いてある。

「フルタイムのQAポジションに応募しませんかって。今の会社の所属だから、契約社員のままだけど。どう思う?」と夫に相談した。

"Do it!"

「でも、テストがあるのよ。合格したら面接もするって。それに基本はフルタイムだって。どうしてもというならパートも考慮しないではないって。パートで申し込んでもいいみたい。週に40時間もできるかしら。今みたいな単純作業だったら、発狂するわ。時給がどれくらい上がるかわからないし。それに、次男の通院だってあるし」と私はぐずぐず言い訳をした。

Just do it! 次男の送り迎えはぼくがやれるよ。きみがどう言おうと、会社はきみを優秀だと思ってるんだから。すぐ返事したほうがいい。もちろんフルタイムだよ。」

夫のソーシャル・セキュリティしか収入がない今、お金がほしいのはやまやまだが、いくら自宅勤務でもフルタイムで大丈夫だろうか。なによりも、私の体力が持つかどうか。


        *


指示通りに、カバーレターとレジュメを送った。

折り返し、テストの説明があった。IT企業なのにテスト用のシステムが作動せず、実際にテストに取り掛かれたのは2日後だった。そのくせ、提出締切日は同じ日なのである。

今と同じような仕事ではあるが、より詳細な分析をしろという。半分終わって、これはだめだと思った。全部終わったときも、まずだめだなと思った。

どうせフルタイムは大変だから、当分いまのパートでいいわ。早くG氏のスタートアップがどうにかならないかなあと、私はどこまでも他力本願である。

テストの翌日、面接の日付を選べという連絡が来た。

1人1時間ずつの枠で、5人分。マネージャーにテストの結果を聞くと、IT企業からは説明がないと言う。私は自分がテストに受かったのかどうかも知らないままで(最初のテストを何人が受けたかも不明)、面接の予約をした。4日後である。

すると、IT企業の面接官2名の名前と面接サイトへのリンクが届いた。

オンラインでの面接は初めてである。

面接そのものは22年ぶりだ。長男を生む前に3年働いた会社での採用面接が最後だった。今の下請け企業では単純作業要員なので、レジュメとテストだけだった。そのレジュメだって、あまりにも書くことがなく、日本での25年前の勤務先や6年前の補習校でのボランティアで膨らませたほどだ。

ともかく、面接のコツをネットで調べて、対策メモを作った。

面接官を検索すると、一人は台湾出身のエンジニア。台湾とアメリカの両方で大学を出て、もちろん博士号持ち。もう一人は北欧出身のプロジェクト・マネージャー。おそらく二人ともまだ30代。


        *


ビデオなのか音声だけなのかもわからず、念のためブラウスを着て化粧をし、あまり見苦しくないところを背景にしてパソコンをセットした。いい迷惑は猫で、地下室で1時間待機である。

面接サイトのリンクはうまく開き、しばらくして二人のプロファイル写真が画面の中央に出た。女性の声が聞こえる。

「私の声が聞こえます? あなたのマイクロフォン、オフになってませんか?」

見ると、それらしいアイコンに斜線がついている。慌ててクリックして、ようやく先方に私の声が届いた。契約社員であれ、IT企業に雇ってもらおうという人間がこれでは先が思いやられる。もしかして彼らには私の顔が見えるかもしれず、無理に笑顔を作った。

女性が少ししゃべったあとで、男性が仕事内容を説明した。事前に聞いていたこととまあ同じである。私はいくつか質問をした。そのうちの一つに、"Good question."とエンジニアは言い、私はほんとにいい質問なのか、ただの社交辞令でそう言われたのか、判断できなかった。

「では、あなた自身について話をしてください」とエンジニア。

準備していたはずなのに、あがっていた私は、「私は日本で生まれ育って、アメリカには25年ほど住んでいます。今の派遣会社には1年ちょっと勤めています」と言った後で、何を話したらいいのかわからなくなった。

「今の仕事で何を学びましたか。わからないことがあったときは、どう対処しましたか。」

私は例をいくつかあげて、説明した。緊張で英語を間違え、5分ほど話すと汗だくだった。これが1時間も続くのか。

「では、今の仕事をどれくらい理解しているかちょっとやってみましょう」とエンジニアは続け、まず私に3つ問題を作らせた。そしてどうやって分析したかを説明させた。どうもうまくいかない。面接官は両方とも英語が母国語ではない。しかし、そんなこと何の気休めにもならない。だいたい、多少のアクセントがあっても、二人とも素晴らしく上手な英語を話すのだ。

どうにか3問を片付けると、今度はエンジニアが問題を出すと言う。あとから思うと、ひっかけ問題ばかりだった。

もはや私の分析はほとんど屁理屈となった。時計を見る余裕もなかった。

「では、最後に何か質問はありませんか。」

もうすぐ1時間が経とうとしていた。最初にあれこれ質問していた私は、何も思いつかなかった。しかし、面接の心構えとして、この最後の質問をちゃんと準備しておけとよく言われる。

「いえ、特に何もありません。」

「わかりました。あ、そうだ。もし採用されたら、いつから働けますか。」

「明日はどうでしょう? いつからでもOKです」と私にできる唯一の売り込みをし、それで面接は終わった。


        *


猫を地下室から解放してやらねば。

1階へ降りていくと、長男がソファでパソコンをしていた。

「ぜんぜんダメだわ。頓珍漢な受け答えばっかりしたような気がする。それに、英語もむちゃくちゃだった。こりゃ無理だわ。」

「お母さん、そんなこと言って、きっと合格だよ。いつもそうなんだよ。毎週クビになるって言ってたのに、QAのインタビューだよ。」

「そうかしら。私って自己評価が低すぎるのかしら。でも、今度はまずだめだと思う。9割ダメだわ。」

あとで考えれば考えるほど、エンジニアの出した問題のうち1問でもまともに答えられた自信がなかった。夫にもそう伝えた。

「やれるだけのことは、やったじゃないか」とどうでもいい返事だった。私はこれまで通りの単純作業に戻った。

仕事をしながらも、あのときああ答えていれば、最後の質問を考えておけばなどと、後悔ばかりしていた。


      *


3日後、今の会社の知らない人からメールが来た。

「残念ながら」というアレだなと思って開くと、合格通知だった。驚いた。

しかも、IT企業側の面接官が私に非常にいい印象を持ったと書いてある。これまたお世辞だなと思った。アメリカ人は、日本人とは別の意味で社交辞令が好きだ。

週40時間のフルタイム勤務。当初は今年いっぱいのプロジェクトと聞いていたが、来年の6月までで、延長もありうる。時給は今の2倍。仕事時間が2倍で、時給が2倍ということは、単純計算で年収は4倍か。もっとも、今年は残すところ4か月だし、来年も6か月間としたら、総収入はそこまで増えない。

「合格って!信じられない。あの面接でよ? 時給は2倍で、フルタイムだから仕事時間も2倍」と夫に告げると、「じゃあ年収は4倍だ」とさっそく計算する夫。そして、Congratulations!と右手を差し出した。

長男にも伝えると、「ほら~。ぼくが言ったとおりじゃん」と、のたまう。

「でも、フルタイムなのよ。あんたが生まれてから初めてよ。あんた、いくつ? 19?」

いくら契約社員でも、もうすぐ52歳になろうという、英語もネイティブでないおばさんを採用するほうもするほうだ。大学卒業年度や日本での勤務年で、私の年齢などすぐ見当がつく。

単純作業からいくらか解放されるだろうという嬉しさと、昇給のありがたさに思わずにんまりする一方で、またしても、私は相当買いかぶられている、QAなんてやったこともないし、すぐ首になってまた今までのパート仕事に戻るだろうと思った。

そうなったときに傷つかないための自己防衛機制である。


<今日の英語>

Let's aim for Monday.
月曜日を目標にしましょう。


派遣会社のマネージャーにいつから始められるかとメールで聞かれて、私は明日にでもと答えたが、IT企業側の都合もあるし、切りよく週明けからにしましょうという返事が来た。



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